細野ビルヂング @
8ozの間借りしている この建物について
20年ほど前 初めてこのビルを見た時は 感動しました。
アールをとった角 昭和モダンで素敵だなぁ と 。
このビルを紹介してくれたのは
阿波座のカメラマンのNさんでした。
スタジオは倉庫を改造し
いつも ポリス/スティングの音が流れている様な
オシャレな空間でした。
情報通でもあるNさんだったので 尋ねたところ
「あるよっ! 西長堀の駅前でボロビルやから すぐわかるよっ!」
(阿波座から西長堀だったら歩ける… )
と思い その足で向かいました。
発見しました!
西日に輝く 【細野ビルヂング】 を
真下に立って 仰いで見た
超広角レンズの様な絵を
今でも忘れまられません
『ここや!ここしかない!』
(続きます。)
2005.11.2
細野ビルヂング A
初めてこのビルを見た時の気持ち
(この建物の中に‘空き部屋’ある!
ボクが入るべき‘部屋’なのラっ!) でした
で
一軒隣にポリボックス
(交番)があり
そこでオーナー(持ち主)の連絡先を教えてもらいました。
後日 入居契約となり
待望の≪大阪・環状線内側の事務所≫
が…
知る人&見た人は 必ず言います
ボロビル って
バブル時期はオーナー自身が
建て直し案を口にしていたほどでした。
(あの頃 沢山 良い建物が消えましたね)
今 細野ビルヂングは‘大阪市の宝物’として
扱われているようです。
で
内装を終え 看板を出し 完了!
そして
ある日曜日 ビル中 誰もいない
ワタクシ一人
ステレオのスイッチ・オンし
ボリューム最大にして流れていた曲は
ボーイ・ジョージ/カルチャークラブ
だった か な 。
(続きません。)
2005.11.4
細野ビルヂング 最終編?
テナント生活 22年以上と判明しました。
きのう 手紙が届きまして
初代(2代目かも?)のマネージャーのN.K嬢からでした。
なんでも
【東京の○○でオリジナルドレスの店をオープン】
【チーフ・マネージャーを拝命しまして】
【御近くにお寄りの際は 是非 】
と ワープロ文章で
ん〜で 手書きで
【覚えてらっしゃいますか? 旧姓Oです】
【22年前 そちらで御世話になりました… 】
【現在 私も○○歳になりまして… 】
覚えてる!覚えてるで〜ぇ!!
当時 N嬢はよく
「アタシは地元では“姫路のチェリー”って 呼ばれてますっ。」
ってよく言ってたの 思い出しました よ 。
という事で22年以上の昔に
細野ビルヂングに間借りをしていたのが
判明ってことでした。
ホントー のところ
(20年経ってないのかな… )と思ってました。
あの頃 マイケル・ジャクソンが
♪ フーッ ♪
って よくいってましたね
(続きません。たぶん)
p.s “姫路のチェリー”ってバラして 良かったンかな… ?
2005.11.5
ちろりん村の住人 @
先々週の土曜日(10/29)
フロント(8ozの事務所)の近くの焼き鳥屋さんで
スタッフ5〜6人とミーティングしてました。
夕食時だったので ファミリーが多く
10人位の団体家族が 部屋の1/3ほど 占め
子供たちがバタバタ ギャーギャーと騒がしく
ワタシ達の声もヴォリュームアップ気味で
話さなければならないくらいでした。
そこに 変なオヤジが入ってきました。
見た目は【スーパーマリオブラザーズ】の あんなキャラクター で
こっち向いて 両手を振っている よ〜
だったので
思わず 目をソらしました。
しばらくして
その【マリオ】の落ち着いた先を 見たら
(先に座っていた?)奥さんと小学生くらいの子供が二人の席で
静か(そー)に食事をしている風だったので
無問題
無問題
と ミーティングに専念しました。
約1時間後
「苦労さん 苦労田さんっ!」と呼ばれて
声の方を見ると
Mちゃん でした
カメラマンのOちゃんの奥さんで
細野ビルの 少し 西に住居がある
って ことは…
あの【マリオ】って Oちゃん てこと ?
あのちろりん村の住人だったOちゃん ? ?
(長文になりそ〜なので 続けます。)
2005.11.7
ちろりん村の住人 A
地下鉄御堂筋線の終点駅が『あびこ』だった頃の話です。
その『あびこ』下車 徒歩5分
【住吉区苅田】にボロ文化住宅(アパート)がありました。
1階は店舗で 2階が貸し文化です。
店舗といっても
ブリキ(トタン)屋 と
ゴキブリがウロウロしているような寿司屋
後の2軒は いつもカーテンが閉まっていたので
営業はしてなかったと思います。
(人の気配はしてたけど… )
ワタクシの友人の実家が経営する物件だったので
『敷金&頭金無し』で転がり込みました。
住宅の名前は‘○○荘’だったンですが
あまりにもマンマなので
友人に頼み込み‘○○アパートメント’と
張り紙(ハッタリ)をしてもらいました。
そこの住人に
・大阪で最老舗の貸しスタジオを卒業した Oちゃん
・中学時代からの友人で広告代理店勤めの K(友達なので呼び捨て)
が
「家賃がメチャ安っ」だったので
「オレも住みたい!」となり
ついに 変な住人の集合住宅と化しました。
ワタクシはOちゃんより早くに その貸しスタジオを辞めて
個人行動(フリーランス)をしていました。
(本当に長くなってスンマセン… が 続く )
2005.11.8
ちろりん村の住人 B
木造で垂直と水平がない文化住宅
扉のガラスは割れていても テープで塞いでOK!!
何でもアリで 文化・文明的な物は何もナシ
それが ちろりん村の環境でした。
毎晩々々の宴会
仕事を終えて 三々五々に集まりだす
何故か いつも ボクの部屋だった。
Oちゃんは いつも 魚肉ハム(酒の肴)を振り回しながら
「○○ポ〜」と言って 入ってくる(挨拶はいつも‘○○ポー’だった な )
Kは「今 取材している会社(クライアント)で えゝモン(資料)があったから… 」
と 高級で珍なる食材を たまに ドン!と提供してくれたり で
チープでプアーで そして心リッチな住民の宴会が始まるのでした
その頃の8ozのメンバーは4〜5人(まだ【8oz】と云う社名は無かったけど)も
帰社するゴトくに 「お疲れ〜すっ」と加わる
そして その時々の 関係者も(??)
10人前後の酒宴は日常チャハン
「○○君 今日 遅いな… 」と時計を見ると
夜中の1時過ぎて
言い合っている ジョウキョーが毎晩 。
そんな中 頭一つ出ていたのがOちゃんでした。
(やっぱり 続きます。)
PS.昨日 元ちろりん村に取材(?)行って来ましたので写真UPします。
今はリフォームされてキレイになっていましたが 外観はホトンド 同じ。
2005.11.9
ちろりん村の住人 C
Oちゃんはフリーのアシスタントでしたが
ファッション限定でした。
それも
当時 関西で3本の指に入る
ファッションカメラマンのT氏の専属でもあり
Oちゃんの部屋は【流行通信】【VOGUE】バリの
ポラ(ロイド)が所狭しと貼りまくってました。
オーストラリア・バリ島・イタリアetc…
ロケのハデ目な仕事が多く
『こんど 何処に行くのン?』
「んー ロンドン」 みたいな会話がフツーでした。
ある時 T氏の紹介(だったかな?)で「公団住宅に入れるねン」
と 引越しを宣言 家賃は「ただドーゼン」なそ〜でした。
そして
ちろりん村に顔見世に来た Kの会社の新入社員で「可愛い子」のMちゃん。
Oちゃんは そのMちゃんを「彼女」にしちゃいました。
(後 OちゃんはMちゃんと結婚)
引越しをしたOちゃんはボチボチとカメラマンの仕事をしだし
そうそう Kもモデル撮影を依頼しだす と トントン拍子です。
ワタクシはちろりん村で同棲をしていた彼女と結婚し 引越し。
Kも しばらくし 引越し。
現在は10名近いスタッフの広告プロダクションを経営。
その後 ちろりん村は しばらく
8ozメンバーの寮のようになっていましたが
それも 終わりました。
ちろりん村の周りは畑が多く
夏 肥の臭う部屋
パンツ一丁で
イーグルス/ホテルカルフォルニアのLP
ヴォリューム一杯で聴いた よ ね 。
あの頃 みんな 熱かったです。
(終わりました。)
2005.11.10
パソコンの話しです
初代はNECの9801でした。
今はWindowsですが
昔から 皆さんによく質問されます。
「何故(なんで) Mac(アップル)と違う(ちゃう)の
ギョーカイやったら Macやろー!?」 と
何度も&何度も 同じ疑問に答えました。
『8ozのフロントは事務職で クリエイトと違い(ちゃい)ますねん 』 と
Macがクリエイター御用達な仕様になったのは いつ頃でしたか
その ずーっと前から【表計算】【宛名書き】にとPC頼りでした。
しかし
【表計算】と云っても 自分で計算式を打ち込むンですよっ!!
『○が△以上の場合は□を掛け☆を割る』 なんていう条件を
コンピュター用語で打ち込むンですよっ!
1つでも間違えるとスゲなく【error】が出て 再度チャレンジ…
5インチフロッピー(CDくらいの大きさ)って云って ペラペラな奴
今なら 笑えますが 。
でも 当時はNECの98系は『国民機』って言われてましたよ 。
9801を導入した ある深夜
電話が鳴りました。
「【終了】出来ないので 帰れません…!」
泣きそうな声のサブ・マネージャーのNさんからでした。
そー です
チャンと【終了】させないと(強制終了すると)
『データーが全部トンでしまう』
と ウソかホントーかの 噂があったからです。
研究熱心なNさんは新規導入機を 残業して
学習していたそ〜 でした。
PCに使われいた時代でしたね 。
街では『ルビーの指環』(寺尾 聡)が流れてた頃だった かな?
(一話完結! 終り)
2005.11.11
電話の話です @
ト〜ゼン 初代は【黒電話】です。
ジ〜チャカチャカのダイヤル式ですね。
‘ちろりん村’を出て 阿倍野区に移り
自宅&事務所の電話番号が
【0010】だったので
「お客様には覚えやすい」 と
少々 自慢の気分でした。
がっ…
ある お客様 イワく
「急いでる時 お前ンとこに電話すンのン
メンドー臭いねんで〜ぇ
0(ゼロ)が多すぎるから 時間 掛かるワァ」
確かに!ダイヤル式の時代の お話です。
時代が少し経って
カラフル電話が登場しました。
それも (見た目が)プッシュ式な…
電話番号をプッシュ&プッシュで
‘ピッ ポッ パッ’と音がするヤツ。
んー でっ
「繋(つな)がる&繋がる」
と 思いきや
‘ジ〜チャカチャカ’と受話器から音がする
あのタイプ…
実は アナログ式だったンです ね 。
細野ビルヂングに入居の契約が成立して
直ぐに
【06-531-0010】に電話してみました。
(阿倍野区と同じ下4桁の… )
(現在の8oz・FAXの裏番号です)
そしたら
「この電話番号は 現在 使われておりません」
と アナウンスが流れたので
『やったー ぁ! いたゞきー ぃ!!』
っと 意気揚々と
西区の電話局に申し込みに行きました。
そしたら どー でしょう…
「この番号は使えません」と
素っ気ない返事が返ってきました。
どー してなんでしょう… ?
(チョッとだけ 続けます。チョッとだけですので… )
2005.11.12
電話の話しです A
何故 【0010】はダメなのか?
公社の局員さん イワく
「特別な場合に用意しています ので…」
つまり 特別な場合・イコール・特別なお客様
で
恐らく…
【8ozの様なフツー(以下)の会社にはヤれない…】
【大企業なんかゞ西区に開業した場合に…】
何度も々々 マネージャー(妻)は足を運び
電話局も 疲れたのか OK!が 出ました。
交渉が最終の頃
「社長(ワタクシ)直々(ジキジキ)に挨拶に参上せよ」
と指令があり
西区電電公社局長の面談し・懇願し
そして よ〜やく イタダきました ゲッツ!! です。
数年して
フリーダイアルのサービスがNTT社から開始する と 聞いて
ワタクシは宣言しました。
『(スケジュールが一杯で)お断りの電話が 多すぎる!』
『オレやったら『電話代10円返せっ!』と 思う』
『8ozの電話をフリーダイアルにするっ!』
と 言い切って
NTTに連絡したら
「西区で 一番 最初」だった らしく
NTT社西区所長が 直々にお見えになり
「ど〜 ぞ お好きな番号を お選びください!」
でした。
チャンチャン
あの頃 MTVで ♪ウイ アー ザ ワー♪ って
唄って た 時代 かな…
(お仕舞い)
2005.11.14
コードレスフォンの話し
電話 つながりで 聞いてください。
初めてコードレス電話で会話した時の思い出
元8ozでデザイン会社(A)を経営しているS君の
北堀江にある お洒落なオフィスに遊びに行った時
美人なスタッフが 「会社から お電話です…」
と イワゆる 子機を渡されました。
ヒモ無し(コードレス)で コロッ とした 子機が ボクの手に
いつもは 電話機を引っ張るほど ワガママに
していた ヒモ付きな受話器に ヒモが無い?!
思わず 不安になり
家で電話をしている様に
立って 壁のほうに向かって 会話しているボクがいました。
S君「苦労さん どー したの?」
ワタクシ「いや… 慣れンもんで 」
見渡せば A社のスタッフは
フツー に 無線受話器で会話してる
ハズかしい…
その後 速攻! 電話を全器総入れ替え しました。
チャンチャン
あの頃 ローラースケートを履いた少年達が
♪ 泣かないで 泣かないで ♪ って 手を振ってた なぁ
p.s
その頃の子機の角(つの・アンテナ)って10cmはユーに あったよね?
2005.11.15
携帯電話の話し 良いですか?
最初のケータイは 携帯的(?)電話でした。
ズボン(パンツ?)のポケットに入れようモノなら
ズリそー になるくらい
だって 300g弱だから…
今の2倍ですよっ!
・連続通話時間 約45分
・連続待受時間 約6時間
笑えませんか?
それでも 時代の最先端アイテム(死語?)でした。
街で ヘーキで 携帯で電話している人を見ると
『ゴーセー やな〜ぁ 』 って思いました。
・通話料 3分/230円
その頃は 8ozメンバーに携帯の番号を知らせていました。
大阪・西区のフロントの営業時間外
つまり
AM10時〜PM6時 以外に
『万一(マンガイチ) 何かゞあった場合にのみ』
そんな ある日 親戚に通夜があって
一晩 明けた AM6時
携帯電話が鳴りました。
「今 阪急の梅田駅の階段で ピー ギャラギャラ ピー 」
メンバーのM嬢からだっ!
アンテナは1本しか立ってない
大広間の真ん中から
ダッシュして 窓を開け 頭を出し
『もし もお〜 し』
「救急車で ピー ギャー 」
階段を 駆け上がり
空の見える 窓を探し 頭を出して
ようやく
会話が成立しました。
親類の人たちは チョッと 冷ややかな目でした 。
チャンチャン
バブルの絶頂期 ジャリン子達の歌が多かったけれど
井上陽水 『少年時代』 耳に止まりました。
2005.11.16
今日は お休み
昨晩 ちょっと 飲みました。
アルコールが 今だに 残って
フラフラで 書け(打て)ません。
きのうの夕方 元8ozのO君が「東京に行く」と云うので
妻と3人でササヤかな送別会をしました。
O君のヒーキの お初天神の境内の 良い店で
昔話にフケました。
今度 あの店に 又 行きましょう。
そー いえば
O君の待ち合わせに向かおうと
梅田 阪急百貨店を横切った ときに
S社を定年退職されたYさんと バッタリ! しました。
そんな 話し 次回して 良いですか?
繁華街では 山下達郎/クリスマス・イブ 流れてました。
p.s O君 ガンバろな…
p.s Yさん 年内に 又 呑みましょう 良い店見つけましたので…
p.s 書き過ぎた かな ?
2005.11.17
元8ozな人々 @
「43歳 ですワ〜ァ」
おとゝい 飲み屋の二階の座敷で
O君に 『いくつ に なったン?』の答えでした。
「23(歳)で 8ozに入りましたから… 」
そー なんだ…
O君はフケて見えてたので
『(デビューが)25(歳) くらい や と思てた』
最初に O君と会ったとき
『ダメだっ!』と思いました。
現場の集合時間前に落ち合い
喫茶店に入ったンですが
まず
座って 足を組んだンです
んで
タバコを吸ったんです が
ミョ〜に 小指が立ってるンです
『O君 そのタバコの吸い方 止めヘンか…?』
思わず言ってしまいました。
別の日
須磨海岸のロケで
O君に銀レフ(レックス板)をモデルに
当てるように言ったンですが
モデルを見ずに 沖の方を眺めている 感じで
又
浜風が強く (レフ板が)フラついていたのです
『チャンと 持っとケッ !』
思わず言ってしまいました。
そんな話し
黒糖のチュー(焼酎)のロックを飲みながら
伝えたら
「よ〜 覚えてますワァ 苦労さん 昔 コワかったから な ぁ 」
オヤジ臭い 大阪弁を使う O君です。
東京でカメラマンとして リ・スタート
がムばってください 。
あの頃 モーニング娘。より多くの女の子たちが
♪ セエラ服を 脱がさないで ♪ って 唄ってた 時代 だった かな
(ハッピー エンドです。)
p.s
元8ozな人々は思い出したら 又 書きます
2005.11.18
10分以上の遅刻は無請求になったワケ
「苦労チャンやったら まー 良い(エエ)けど…」
S社のYさんはメッタに怒らない人ですが
スタッフのS君に対しての 苦情でした。
「『おはよー っす』って入ってきて
ビュアー前にドッカり座りよんねん
ほんで
(昨日の)ポジチェックするのん アカンで〜ぇ」
柔らかな京都弁で
「苦労チャンの真似してるけど アレ 違やうで〜ぇ」
S社の仕事は3日〜1週間続きが多く
その分 ナレが出てきて
ワタクシは よく 10〜30分 遅刻していました。
S君だけではなく 当時
『遅刻するのは カッコ良く 早く仕事を終えれば それで 良い 』
的 フーチョウ がありました。
ワタクシがその風(風潮)を 出していたンだと思います。
あちら こちら から
「まー 良いけど なぁ… 」 と 遅刻の話しを
耳にしたワタクシ
宣言しました
「オレ 絶対に遅刻 せー へん!」
「みんなも 遅刻したら (お客様に対して)無請求にするっ 」 と
その頃 宅配ピザ屋が 関西に進出しだし
取説(メニュー?)に
【お約束の時間の10分(30分?)以上 お待たせした場合は
料金を頂きません】 と 書かれてありました。
『これや これっ!』
と まんま パクっチャいました。
今 宅配ピザ屋さんは【交通事故】を
理由に その システムは とっくに 無くしてしまいましたが 。
YさんはS社を定年退職され 京都で趣味の陶芸にイソしんで おられます。
S君は東京でデザイナーとして ガムバッテいます。
あの頃
もんた&ブラザーズが シワガレ声で
♪ ダンシン オールナイ ♪ って叫んでた 頃 だったかな…
(一話完結しました。)
2005.11.19
宅配ピザの話し
嘘を書いてしまいました。
Dのピザが東京の恵比寿で最初の店舗を出したのが 1985年
‘ダンシング・オールナイト’が流行ったのが 1980年
だから
関西でDのピザが進出したのは 恐らく 1〜3年後のはず
だから
前回の『あの頃』の時代はウソです。
時代錯誤でした。
チャンチャン
と 本日は終わりません…
初めて Dのピザを口にしたのは
東京の貸しスタジオのAでした。
当時
S社とCMキャラクター契約していたのがT中M佐子さんで
Yさんと撮影のため 東京に よく 出掛けました。
(売れっ子なので 大阪クンダリまで来てくれません)
だいたい 前日に到着して
ライティングを仕込み
ポラ(ロイドの)テストまで 済ましてしまい
後は 酒でも カッ喰らい
本番当日は夕方迄には終了させる
と いうパターンです。
ん〜 で
ある時の撮影で 昼食時間となり
大阪から同行したプロデュサーが
スタジオさんに 「メニュー ちょーだい!」 し
ゴッソり あるメニュー を手に
T中M佐子さんに まず 見せたンです が
「あー っ Dのピザが良い〜 」って
大きな声で うれしそー に 答えていました。
しばらくし
薄っぺらやけど 大きなダンボール箱が
2〜30個ほど スタジオに ドンドン運ばれてきました。
(タレント(役者さん?)の時は大体がスタッフ&ギャラリーは大人数です)
ワッ ワ〜ア なんだ これぇ… ?
良い 匂い でした
フタを開けると
異国 イタリアが ありました
ウマいっ!
死ぬほど ウマい!!!!
(何でこんな話し続けんねん?)
2005.11.20
ピザの話し
田N美S子さん ご指定のDのピザは
その頃 おシャレなセレブに 御用達だったんでしょう ね
ってことは
1985年or1986年の話しでしょう ね。
映画E.Tの冒頭シーンに出てた
あのデリバリー・ピッツァが日本(東京)に上陸ってこっちゃね!
何故か 気分が ウキウキ♪ でした。
後日
我が家の郵便受けに
『宅配ピザ 始めました!』 ってチラシは入りだしました
がっ
電話し
ピンポン〜♪ と 扉を開けると
汚いエプロン掛けた様なオヤジで
「まいど〜ぉ」 って 言いそうで
許せない笑顔が そこにアる 状況が続きました。
味も 匂いも 見た目も
Dのピザとは
似てない 非なるモノでした。
おそらく 小さな喫茶店が
余興のつもりで やったんでしょう かね 。
話しは ちょっと 変わりますが
ピザをはじめて食べたのは
と いうか
喫茶店で出している ピザもどきなパン とは違って
本格的 風 (!?)
具をトッピングと言っても 恥ずかしくない 風 (!?)
イタリア人が見ても 許してくれそう 風(!?)
ん〜 な ピザをはじめて食べたのが
やっぱり 東京でした
個人行動(フリー)になって半年の頃だったと思います。
東京の出版社でS社(主婦向け月刊誌の最大手)さんが
関西方面のロケがあるとき
ワタクシが(御)用達してもらってました。
カメラマンは 撮影内容で その時々 変わりましたが
編集スタッフはいつも Nさん&Oさんペアーでした
ワタクシと年齢が近い せーもあり 話が合い
撮影を終えて
ホテルにカメラマンを置いてけボリにし
よく 3人で宴会しました 【取材費】で
「東京に来ることあったら 必ず連絡 頂戴よっ 」
と いつも 帰り際に言われていました
そんなあるとき
大阪から東京ロケの撮影があり
あらかじめ 「撮影終了後は別行動で」って了承をもらい
「おつかれさんですぅ」で
別行動
勤め先近くの銀座で 二人と待ち合わせしたンですが
二人とも スカートはいたりして
ロケの現場着とは 別人のよー でした
「美味しい ピザ屋が出来たから 行こー よ」 と
向かった先が
ピザレストランSでした。
(お願いします 続かして)
2005.11.22
はじめてのピザレストランSk's
店は クラクラするほど 明るい
デキシーランドジャズの生演奏で流れていて
バケツくらいの大きさの ビアーグラスが見えた。
おいおい あんな デカいので 誰が飲むネン…?
カウンターの前で 説明を受ける
「プレーンを頼んで トッピングを自由に決めても良いのよっ 」
『うっ ん…』(プレーンって?トッピングって?)
カウンターに向かって
「アンチョビと茄子(なす)は 別で お願い 」
(アンチョビ? ナスビは『日本物』やン…)
ワッケ(訳) 分っからん
恐らく 彼女たちのオーダーの真似をして
ワタクシも注文したと 思うんですが
ウツロです…
着席し
テーブルに ドンと なみなみと注がれたバケツが置かれた
(来たっ! こいつヤ )
(『飲ん兵衛』なボク用かぁ? 無理やろ… )
でっ
普通サイズのビアジョッキーが3個きた
(そ〜 云う こと なんか 『分かった 分かった!』)
(だいたい ダンドリ 分かってきた)
ピザがくる前に 酔っ払ってしまお!
キー(気分)オオキ(大きく)しとかんと(しとかないと)
三人で 会話したはずですが
まったく覚えていません
ピザがきました が
ワタクシ 飲ンでいる時は
肴を喰わない派で
飲みながら 話しながら 食べながら
って無理マクリな状態で
キンチョー …
彼女達はピザに
ケッチャップを上品にかけている
(なるほど なるほど 西洋料理にはケチャップやね)
ワタクシはドードーと たっぷりと 振り掛けました
「苦労田くん ダイジョ〜ブ?」
(う ん ?)
『ケッコー 好きやねんっ 』
「辛党だったんだ〜ぁ 」
○×¥#$?????? カラトウ ??
はじめてのタバスコの経験でした。
この後は 何も まったく 記憶にございません。
あの頃
バブルが始まってたのか 皆がみんな
♪ ペッパ〜 けーぇぶうッ♪ って振付をしていた
熱気のあった 時代 か な
p.s
Nさん&Oさんは
いつも 顔を見合わせては「取材費で〜ぇ!」
って 笑ってましたね。
2005.11.24
バーガーショップ M での失敗
1975年 東京・原宿
表参道と明治通りが交差する
北西角にバーガーショップ M が出来た。
N大の写真学生
その原宿で新聞配達のアルバイトで
生計を立てていました ワタクシ。
ある日
夕刊の配達時 自転車で
OPENしたばかりの M の前を通ると
50人くらいの行列が出来ていた。
早速 友人を誘い
M に向かい
行列の尻に加わる。
きれいなオネーさんが
笑いながら仕事をしている
テキパキ&テキパキ
反対に 客の方は
慣れないシステムに怯えてるようだ
オド&オド
ボクの順番がきた!!
ドキ&ドキ
『ビッグマック下さいっ 』
(オーダーが通った フウ… )
「ご一緒にお飲み物はいかがですか?」
(げっ! そんな予定は無かったけど… )
(オネーさん せっかく 勧めるんだし… )
『じゃ〜 シェイク 下さい』
「何に なさいますか?」
(えっ! メニューに 目をやり DRINKの下には ちゃんと シェイクがある)
『シェイク を』
「何に なさいますか?」
『シェイクぅ… 』
(ボクの言葉が通じない…!)
(後ろのヤツらが馬鹿と思ってるハズ…)
4〜5回くらい このやり取りをしたと思うんですけど
ワタクシには小1時間したように感じました
『もっ 良いです… 』
この後の 記憶が 又々 無いんです。
@ビッグマックだけ手にしたのか
A最前列から逃げ出したのか… ?
あの不思議な会話のやり取り
みなさんは トーゼン お分かりですね?
『マックシェイク』だの『オレンジシェイク』だの
『ミルクシェイク』だの『バナナシェイク』だの中の
「どのシェイクですか?」だったんです ね。
当時の M はマニアル外の言葉は
厳禁だったんだろ と 想像します。
それと 今から考えるに…
オープニング・スタッフだった から かも…
いえ いえ
ワタクシが田舎モンの根性ナシやったんでしょう。
あの頃…
大学紛争も下火になり
いちご白書をもう一度
を聴いて トドめだな って思いました。
2005.11.25
スタバに行けますか… can
you ?
この文章を読む人の年齢を
勝手に想定しているのが
30歳代後半〜団塊の世代 ですが
Starbucks Coffeeはご存知ですか?
失礼な質問になってるかもしれません。
Starbucks Coffeeに入ったことありますか?
ワタクシは知っていますが
入りたくはありません。
オーダーの仕方の煩雑さと全席禁煙が理由です。
妻に同じ質問をしましたら「私もNG!」 でした。
こうやって 今 から遠のいていくのかな…?
どんどん ギョ〜カイの話しから逸れていきます ね 。
すいません…
次回は 戻します。
2005.11.26
時には起こせよムーブメント @
先週の土曜日 フロントミーティングをしました。
夕方6時のスタート時はワタクシを含めて4人でしたので
(今日は無難にいけそうかな…)って 思ってました。
前回(ちろりん村の住人@)同様 焼き鳥屋のビル3階
の座敷に4名様用のテーブルに座り
まず
樫原クンのギャランティー・UPテストの
ポジを拝見している…
ところ に
大脇クン&仲谷サンチームが現場を終えて
「お疲れさん す」 と 参加
隣の4名様用テーブルを
引寄せる
そして
先週1週間の事件・事故の報告され
その対応策を考え&聞いていく
今週は
現場に関して それ程
解決がムズカシい問題はナかったのですが
リクルートの早期解決策を打ち出さなくては…
となり
【ハローワーク】と
【『芸』系の各種学校の掲示板に掲載を依頼】
を来週から 早々に動こー と 云う ことにしよ〜 か
と 一息ついた頃
又もや 仕事帰りの 岸田クンが登場
(にこちゃんマーク見たいな 岸田クンの顔は
場を和ませる な ウンウン )
なんて 思ってたら…
又々 しばらく 経って…
元8ozのKAさんが現れる
聞くと
「MYさん・MCさん・YNさん
KAさん・TEさんたちも一階下で飲んでる」と言う
「一緒に 飲も〜 や〜!」
となり
心斎橋にタクシーで 移動
こういう場合は カラオケ
下地が出来ている(すでに酔っ払いな)ので
みんな ハイ! です
2〜3曲目に流れてきたのが
「WOW WAR TONIGHT〜時には起こせよムーヴメント」
大合唱で
「♪ヲ〜 ウヲ〜 ウ ヲ〜 ツーナイ♪」
と みんなが揺れているのを 眺めて
ふ と
あの頃 を思い出しました。
1995年
阪神大震災
関西の広告業界が止まった
あの頃
(これは そーとー 続きそうな ヨ・カ・ン)
2005.11.28
時には起こせよムーブメント A
前の年1994年
・ 1月17日 ロサンゼルス地震(米国)
・12月28日 三陸はるか沖地震
考えるに 前兆はあったンですね…
でも「関西は地盤がシッカリしてるから 関係〜ぇ ナイ 」
って みんな 思ってた。
8ozのメンバーの被害は
ワタクシ含めて
半壊2名 全壊1名
‘命’はダイジョーブでした。
ワタクシ&妻&子は
奈良の実家に身を寄せ
小学校に上がる子供に合わせて
3月 戻りましたが
ガスは不通でした。
1月17日 当日
8ozのスケジュールは6名入ってまして
全員 現場に向かえました
交通手段が無くって
歩いて行き
1時間ほどの遅刻になり
お客様に「よ〜 来たな…!」
と反対にビックリされた
と いう ツワモノな話も ありました。
さて
その 翌日から
キャンセルが続出しました。
当たり前です
人がモノ(商品・機材)が etc… が
大阪(関西)に集合できなくなったンです。
ほぼゼロ スケジュールが
3ヶ月 続きました
ポツリ ポツリが半年
まーまーで1年半
会社の軍資金も尽きまていきます
毎月 壱百萬円の赤字が続きました。
ドッヒャ〜 状態です。
スケジュールに空白が続くメンバーも 不安 です。
そこで ほとんど毎日 仕事の無いメンバーと
ミーティングしました。
「どー したら この状況を 打破できるか?」
毎日毎日 ミーティングしました。
「値下げしましょう」
「‘スタジオ8oz’にしましょう」
「Dタイプ作りましょう」
「夜 ‘スナック8oz’を開業しましょう」
「電話で営業かけましょう」
「賞金つけましょう」
「FAXで‘元気’をアピールしましょう」
「ヒッカケ橋でチラシくばりましょう」
「電話の受付時間を延長しましょう」
「東京に行きましょう」
「ドカタ業に進出しましょう」
「電気はコマメに消しましょう」
「ヒマな時間に お客様に挨拶にでましょうか?」
でも「苦労さん ギャラ・ダウンは止めてください ね」
そんな ミーティングの終了後
カラオケでけ〜きづけ(景気付け)しました。
ん〜で
必ず 歌った 歌が
「WOW WAR
TONIGHT〜時には起こせよムーヴメント」
(やはり 長くなってますね 続く)
2005.11.29
今日は手を抜きます。
お休みしたいンですが シャクにさわるので
コピー&ペーストでゴメンくださいまし。
(小室さんに 黙ってのケーサイです。)
たまにはこうして肩を並べて飲んで
ほんの少しだけ立ち止まってみたいよ
純情を絵に描いた様な
さんざんむなしい夜も
笑って話せる今夜はいいね…
温泉でも行こうなんて いつも話している
落ちついたら仲間で行こうなんて
でも
全然 暇にならずに時代が追いかけてくる
走ることから 逃げたくなってる
※Wow- WowWar- WowWar
tonight
Wow- WowWar- WowWar forever
Wow- WowWar- WowWar tonight
Wow-
WowWar- WowWar forever※
優しさに触れることより ふりまくことで
ずっと ずっと
今までやってきた
それでも損したなんて思ってないから今夜も
何とか自分で自分を守れ
(※くり返し)
(rap)B U S
A I K U H A M A D A
B U S A I K U H A M A D A
Hey Hey Hey
時には起こせよムーヴメント
がっかりさせない期待に応えて 素敵で楽しい
いつもの俺らを捨てるよ
自分で動き出さなきゃ
何も起こらない夜に
何かを叫んで自分を壊せ!
(※くり返し)
Getting better Begin to Make it
Better
思えばlove songなんて歌って見るとき
必ず目当ての誰かがいた様な…
それでもなにかの役にはたってる
人生の…。
流れる景色を必ず毎晩みている
家に帰ったらひたすら眠るだけだから
ほんのひとときでも自分がどれだけやったか
窓に映っている
素顔を誉めろ
(※くり返し)
いつのまにやら仲間はきっと増えてる
明日がそっぽをむいても走りまくれよ
そうしてたまには
肩を並べて飲もうよ
Getting better Begin to Make it
Better
(※2回くり返し)
Wow- WowWar- WowWar tonight
Wow- WowWar-
WowWar forever…
2005.11.30
時には起こせよムーブメント B
Hey Hey Hey
時には起こせよムーヴメント
がっかりさせない期待に応えて 素敵で楽しい
いつもの俺らを捨てるよ
自分で動き出さなきゃ
何も起こらない夜に
何かを叫んで自分を壊せ!
特に こゝの歌詞のところが
当時の いけてない ワタクシ&8ozの 応援歌として
身体に入ってきました。
で
ミーティングの結果から
@値下げ を断行しました
A‘猫の手チーム’を 発足させました
B電話の受付を‘24時間営業’ 開始しました
C月に一度 お客様にFAXで‘8ozニュース’の送信 始めました
特に ‘猫の手チーム’は と〜しょ『3ヶ月限定キャンペ〜ン』で
始めましたが お客様に評判が良かったので『定番メニュー』となりました
また
ネーミングも悩みました
最後まで‘猫の手’と争ったのが
‘金魚のフン隊’&‘孫の手チーム’
そのほか
‘二軍団’‘少年隊’‘予備隊’‘アスナロー(明日なろう)ズ’ etc…
と
まー
今となってはジョ〜ダンは止せっ! って感じですが
懐かしい思い出です。
で
結果 スケジュールは ジョジョ に ですが 回復 しました。
「WOW WAR
TONIGHT〜時には起こせよムーヴメント」
当時 この曲を社歌にしよーか なんて 思ったりしたほどでした
でも
しばらく経って 同じメンバーでSMAPのSHAKE ♪ヒッピ ハッピ シェイク♪
ウルフルズ ♪バンザ〜イ 好きでよかった♪
とカラオケで大声出して歌いました
が
やはり 最後は
「WOW WAR
TONIGHT〜時には起こせよムーヴメント」
でしたね… あの頃 。
チャンチャン!
p.s 師走の始まりが 晴れで良かったです 。
2005.12.1
ボクシングのグローブの重さ? 水割りグラス? @
われらが‘8oz’の名前の由来です。
「苦労田くん 若い頃 ボクシングやってたンやろ…?」
と 突然 質問されたことあります。
こんなガリガリなワタクシの 何処を見て
そー 思ったンでしょう?
「軽量級のボクシングのグラブって 8オンス やんな?」
『?』
「それから 名前 取ったン チャうん?」
『??』
「プロの正式試合の時に使うヤン!」
『???』
「ミニマム級〜スーパーライト級の あれ
8オンス やろ…?」
『????』
グローブな… へー そー やったんかぁ
そー いや
TVのボクシングの試合の解説で 確かに
「今日は ○○オンスのグラブを使用しています」
って言うてるな…
と
それとは別ケンで
「苦労チャン 酒飲みやからな… 』
『は… 』
「タンブラー からやろ ?」
『?』
「会社の名前…」
『??』
「水割りグラス 8oz やろガ〜!」
『???』
へー そっか…
確かに ウオーター系のバイトしたときに
「今日は30名様の貸切だから 8タン 30ケ準備するように」
って指示されて 倉庫に行って 棚に
8タンって書いた所からゴソゴソと出したな
あれって8オンス・タンブラー って意味やったンやね…
確かに グラブもグラスも『8oz』 ら し い …
でも それって ネーミングを決めた ずっと後になって知ったことなんです。
考えてみたら ミョウな単位ですね…
【グラム・g】と【シーシー・cc】の両方
重量も容量もあらわす単位なんって… (他人ごとみたいに (他人ごとヤン!?) )
8oz というネーミングの由来は
そんな 有意味なモンじゃー ナイんです
意味ナシです。
実はですね…
で
また あした
つまり 続く です。
2005.12.2
ボクシングのグローブの重さ? 水割りグラス? A
8oz の
名前の由来です。
ちろりん村から阿倍野の
四軒長屋に宿替え(引越し)し
不釣合いに大きな事務用デスクを
骨董屋さんで買い求め 『OFFICE』を気取っていました。
その頃のメンバーは5〜6人だったと思いますが
その中で初代のメンバーのM君が
「苦労さん 新しい住所になったことやし
うっとこ(私達)の名前 変えません?」
って みんなと宴会している席で
とーとつに 言い出しました。
当時 グループ名(法人でもないので)は
『the pro-assist』で
電話で名乗るときは 「はい アシスト です。」
だったと思います。
M君 続けて…
「だって 何か まんま ですヤん」
「オシャレな喫茶店かブちックみたいなンに替えましょヤ〜ぁ 」
飲んでいた席なので
みんなが てきとーに アレorコレ&ソレと言い出し
いきおい 何故か『苦労田組』になりそーになりました。
ワタクシ 目立つのはスキですが
『オレが トップ や!』的 考え方はスキクなかったので
『ま〜 ま〜』と 軽くイナしながら…
『電話番号が‘0010’やから ‘10’にチナんだ屋号にしらど〜 かな…?』
と
言って いちおう みんなに賛同されました。
ワタクシの頭の中には
10cc(ロックバンド名) や 4℃(アクセサリー屋さんの名前)
のイメージが湧いてきまして
みんなに『次の○月○日に集まって 決めよ〜 かぁ 』
となり その夜は 解散となりました。
さて…
(続く)
p.s きのう 『8タン』て書きましたが よく考えたら 『8単』だったと 記憶がよみがえりました。
2005.12.3
ボクシングのグローブの重さ? 水割りグラス? B
8oz の
名前の由来です。
恐らく みんなは‘単位’を考えてくるだろうから
ワタクシは ひとひねり して
『十番館工房』という ネームを隠し玉のごとく
ひっそり こっそり 用意していました。
読みは
『じゅうばんかん こうぼう』
『じゅうばんかん くぼう』
ちょっと ヒネって
『こうぼう・テン』
『アトリエ・テン』
『テン・アトリエ』
『アトリエ・ナンバー・テン』
『ナンバー・テン・アトリエ』
ただ単に
『ナンバー・テン』
もしくは
『テン』
ま〜 読みは みんなで 面白く ワイワイ考えようー って 思い
ちょっと 自信満々でした。
○月○日 当日
ネーミングが集まりました。
やはり みんなは ‘単位’が 多く
ワタクシ 『勝っった!』
と よゆ〜(余裕)で提出
マネージャー(妻)「イヤやん こんなん」
「長ったらしー漢字 言いにくそー」
M君「爺ムッサ〜(ジジムサい・古臭い)」
○君「ダサい!」
△君「ダサダサ」
□君「臭っさ〜 あ!」
と 即! 却下 の風が吹きそうで
もっと ワタクシの案を 議論を尽くすべきやン… と 思いつゝ…
話しはドンドコ&ドン 次へ 進んでいきます。
トホヽヽヽ
ま
結局 単位で行こう!となり
g(グラム) t(トン) gal(ガロン) $(ダラー) ¥(イエン・円)
√(ルート) kt(ノット) 頁(ページ) Hz(ヘルツ) Cal(カロリー)
Lux(ルックス) ct(カラット) €(ユーロ・おいおい その時代にない単位や…)
hPa(ヘクトパスカル・おいおい それもナイっ!) mb(ミリバール・それそれ…)
そんな中で OZ がありました。
‘オンス’って仏蘭西製の香水の裏ラベルに表記されているイメージがあり
キレイ…
ワタクシ 強く押しました。
ct(カラット)とOZが最後まで残りました。
10ct も 綺麗やな…
「はい テンキャラット です。」
響きも 良い 感じ や …
(続く)
2005.12.5
ps 今日&明日はプライベートで大阪に居ません。 明日は休日申告で お休み。 アシカラズ。
ボクシングのグローブの重さ? 水割りグラス? C
8oz の 名前の由来です。
○君 「カラットは複数形では『カラッツ』になりますよ」
ワタクシ 「ほんだら… 『テン・キャラッツ』 かあ 良いな… 」
△君 「決まり! ですね… 」
□君 「決まり! で 良いですヤん うちの近くの商店街に『3カラット』っていう
喫茶店があるンですが ちょっと オシャレやと思って 前 通ってました」
ワタクシ 「ちょっと待て! あるって… ことは あるってことやろ…!?」
M君 「オリジナリち〜 が ナイって ことやン 」
ワタクシ 「今後 誰かが 付けたくなる名前って こと ? 」
全員で 「止めよ やめよ yameyo 」
と 大合唱
ん〜 で OZ が 再・浮上
ワタクシ 「って〜 ことで『10oz』で いこか?」
M君 「苦労さん 『10oz』書いたら こー やけど
こー かいたら『10OZ』やで…」
ワタクシ 「ほんま や な… 意味わかれへんな… 」
○君 「『テン・オンス』って響き悪いですから 『ジュウ・オンス』ですかね… 」
△君 「『ジュー』って響き 重たい感じ と ちゃいます?」
ワタクシ 「そー や な… 」
□君 「完結してません? 『いち・にー・さん・しー・ごー・ろく・ひち・はち・くー・じゅー』」
M君 「オレら 未完成の ほー が ええな… 」
○君 「これで おしまい って感じ ですか ね… 」
△君 「一杯 いっぱい かな… 」
ワタクシ 「‘10’ やめよか…」
M君 「‘9’は 『苦しい』から やめましょねっ! 」
ワタクシ 「ほんだら ‘8’か… ?」
□君 「‘8’やったら 『末広がり』で OK!!ちゃいます」
M君 「アホー 『末広がり』は 漢字の『八』やろが〜! 」
△君 「横にしたら‘∞’ですね… 無限大です ねっ! 」
M君 「ワザワザ 誰が 横にすンねん … 」
ワタクシ 「まゝ ゝ 決めよか… ちょっと 言うてみて… 」
マネージャー(妻) 「はい ハチオンス ですっ 。 」
ワタクシ 「どー やっ?」
全員 「え〜 ンちゃいます (パチパチパチ)」
ワタクシ 「ほな 明日から 名乗ってっ!」
マネージャー(妻)「え え え え え え え 明日から あ ???」
と 酒飲みながら 決定しました。
電話番号から始まった
社名の由来
十番館工房 にも
10cts にも
10oz にもならず
8oz に決まりました
こんな 名前の決まり方で
良かったンだろー か って
振り返ることもありますが
それとは 反対に毎年々々
こんな雰囲気で
社名を替えたい という
衝動に駆られ も します。
チャンチャン
あの頃 日本武道館で
「さよならの向こう側」を歌い終えて
マイクを置いて消えてしまった人がいた
そんな時代です。
2005.12.7
今回も手抜きで…
今週の月&火曜日と81歳の母親のお供で
徳島県に行って参りました。
疲れました…
月曜日の朝 出発し
昼食の為に淡路島のレストランの席につくなり
「歯 忘れてきた…」
そ〜 なんです ‘入れ歯’なんです。
数年前の旅行でも 同じことがあり
「やれやれ」と‘入れ歯’の所在まで
1時間強かけて 戻った経験がありましたが
今回も でした。
今回は‘団体’だったので 戻れず
‘歯ナシ’での旅行だから
母も大変だったとは思いますが お供も タイヘンでした。
お茶が好きで なほかつ トイレが近い 母
車に乗り込むなり
「トイレ 行きたい!」と ゴネるのです。
ワタクシが煙草を吸えば
「も〜 止めなさい や カラダに悪い で 」って言うし
ビールを飲んでいると
「も〜 そのへんにしとき や」と 毎回々々
そー 云う 母なんですが
10年近く前まで
鼻からケムリだしていたし
「ビール お代わりっ !」って ロレってた人なんですよお
そんな こんなで
疲れましたので
ワタクシ的ギョ〜カイの話しはナシ!
チャンチャン
2005.12.8
閑話で休憩
昨日 《今回も手抜きで…》 書き(打ち)終え
『たまには ギョ〜カイ噺(ばなし)ばっかり じゃ− ナクっても 良いジャン 』
と 思いつゝ…
夜
妻&子に相談しました。
ワタクシ 『ちょー 読んでみて… 』
で
妻 「たまには 良いンじゃー ない 」
子 「これ つづく の ?」
ワタクシ 『 あほ ‘チャンチャン’って 書いた− るやろ 』
子 「‘チャンチャン’って ‘終わり’の意味 ?」
ワタクシ 『そ−や 』
ん〜 で
ワタクシ 『 前も‘手抜き’って書いたテーマあったけど…
ギョーサン(たくさん・沢山)書いてるから‘手抜き’とチャウな…? 』
妻 「業界の話と違うけど ね 」
ワタクシ 『 どー 面白い(おもろい) ?』
全員? 「良(え)えン チャう 」
んー で だっ
ワタクシ 『ほんだら 題名を《閑話休題》 として たまに 書こ か ?』
妻 「良いと思うけど 」
ワタクシ (子に向かって) 『《閑話休題》って 知ってるか?』
子 「‘つまらない話’みたいなモン ?」
ワタクシ 『そー そー ‘閑話休題として’って よー 使う やん 』
でもって
ワタクシ (子に向かって)『 念のために 調べてみて 』
子 カチャカチャカチャカチャ(キーボ−ドを打つ音) ペシー ッ!(エンターキーの音)
子 「お父ぉー さん 違うわー 間違えてるう !」
ワタクシ 『 ? 』
子 「‘つまらない話は さて置き’と本題に戻すときに使う言葉になってる よー っ 」
全員? 「えー っ !」
でした。
つまり 接続詞的に使用する‘言葉’だったンですね…
バカでした 反省し 土下座し 悔い改め ゼツボウします。
っで
本日も 《閑話休題》
悔い 改め
《閑話で休憩》
と なった と さ 。
チャンチャン!
2005.12.9
祖谷峡の蔓橋ロケ たどり着いたら いつも雨降り…
前々回 ‘歯ナシ’な話をしましたが
徳島県の名産品で 半田素麺 があります。
母親のお供で行った徳島のホテルに到着するなり
「お土産 買お〜とかんと」とノタマうので
足の悪い母なので付いていきました。
【鳴門金時(さつま芋)もの系】
【わかめ系】
【酢橘(すだち)・柚子(ゆず)もの系】
【阿波三盆】
【大谷焼き(陶器)】
ま〜 あって しかり の 【阿波の地酒】
何故か【一六タルト】が置いていたり (オイオイ愛媛県やろ)
まー
そんな中 半田素麺 がありました。
わが家は この半田素麺 が常備品で
あれ! 何故(なんで)やったけ…? いつ頃から やったっけ…?
って 考えいました
らー
思い出しました。
友人のK(ちろりん村出身)の経営する
プロダクションD社から
チノパンツ(米国製)の撮影を依頼され
《骸骨シリーズ》と称して
等身大の骸骨3〜4体にそのチノパンを着せて
鳥取砂丘の中で焚き火をさせたり
京都・貴船の奥山でキャンピングをさせたり
の
シリーズ中
《ジャングルの奥地の吊り橋で 遭難している 骸骨たち》
をイメージした撮影を 徳島・西祖谷村にある
祖谷の蔓(かずら)橋で撮影したのを
思い出しました。
HMI(デーライトのスポット・タングステンで10kw相当)を2台
ストロボを5セット
念の為 タングステンスポット1kwを2頭
発電機
そして
8ozのメンバー3名
と
ソートーな機材&人力でイドみましたが
撮影当日 朝4時起床
大雨
しかたなく
日の出を待って
自然光のみで 撮影
まー
撮影仕上がりは上々だったで
サイワイでした。
そのロケの帰りの車で
国道沿いに 半田素麺 と書いた
看板や幟(のぼり)の多い町(美馬郡半田町)を通っていて
ムリを言って止めてもらい
その素麺を買い求めた
そんな
記憶がよみがえりました。
それ以来 麺類大好きなワタクシ
半田素麺 のトリコとなったのでした。
チャンチャン!
あの頃
森山良子が
♪ ザワワ〜 ザワワ〜 ♪
って ザワついてハッタね…
2005.12.10
ストロボが飛び(発光し)ません!! @
先週の土曜日 P.M6:30 堺筋本町
とある居酒屋さんで
フロントミーティングをしました。
その居酒屋さんは 8ozの忘年会の
会場の候補で ロケハン(下見)がてら
ついでに ミーティングをしよう
となりました。
結論から言いますと…
忘年会場としては‘NG!’でした。
地下1階のロケーションなので
ケータイの電波が届かないのが
理由でした。
8ozは…
電話受付は365日・24時間やってます!
ので忘年会の日は ケータイに転送で受けるのがヒッスーで
‘アンテナ3本’は絶対条件で NG となりました。
で 今回の話は
全然 別で…
その夜 大阪・堺筋本町に行くため
自宅を出て 電車に乗り込み
【西宮北口】で特急に乗り換えようとした時
特急側のドアーの所にカメラマンのKさんを
発見しました。
『Kさん ! 』
ほんのしばらくの間があり
「おおおー っ!苦労田くん!」
阪急・西宮北口からKさんの事務所がある
堺筋北浜まで 懐かしい 話が続きました。
「美章園(阿倍野の四軒長屋)で
よー 飲んだな…
確か 黒い猫 おったな…」 『居ました 居ました』
「O君(ちろりん村出身) 元気にしてンのん?」
「O君のあの公団はオレが住んでたトコ やん」
「地震の時は西宮の浜の家が 半壊やってん」
『Sさん(当時 Kさんのハウスアシスタント・女性) 沖縄の離島で
確か たこ焼き屋 みたいなん してたんチャいました?』
「Sくんなあ 今 大東島(沖縄)でシシカバブーの屋台してる」
「地元の焼酎 送ってくれよってなあ 『美味いから また 送ってくれ』って
言うたら 3本送ってくれよってんけど なあ
ある バー で その銘柄と 同じのあったから 値段 見たら
1本 3万円やって な 悪いなあ 思たわ 」
昔から Kさんはヒョ〜ヒョ〜としていて
色んな意味で コダワらず
他人の悪口やグチを言わない人で
8ozのメンバーも全員が‘良い人’
で一致していました。
「苦労ちゃん 昔 東京で撮影した時に
U君(元8oz)と会う言うて 別れたけど カレ 今 がんばってる らしいなあ」
『渋谷のハチ公前で待ち合せしたンですけど
ほとんど田舎モンの集合場所で… 』
『で… あの撮影の時 ストロボ 突然 飛べへんようになって
びっくり しましたよ ね… 』
「ああ あれなあ W尾Iさ子の撮影やったなあ 」
そん時 の 話です。
続く
2005.12.12
ストロボが飛び(発光し)ません!! A
M電気がパソコンを発売 新規参入です。
イメージキャラクターにW尾Iさ子さんを起用
その立上げCMのスティール撮影のために
Kさん・Sさん(ハウスアシスタント・女性)そしてワタクシ
場所は新宿・市谷にある
D社のスタジオだったと思います。
2日間の撮影予定
1日目は商品(PC)撮影
2日目がモデル(W尾Iさ子さん)撮影
商品撮影はライトの要望レベルが高く
かなり夜遅くまで時間が掛かった と 記憶しています。
次の日
商品がらみのW尾Iさ子さん
商品ナシの顔のアップ ショルダーアップ バストアップ
ウエストアップ と 無難に 撮り終え
食事タイム
日が落ち切った頃から
いよいよ 全身のポスター撮りになりました。
駅貼りポスターなので力(リキ)を入れなくてバ…
ライティングが完成し
ポラ(ロイド)テスト OK!!
で
本番です。
最終の露出をチェックしたワタクシ
「絞り 161/2(ハン) OK!ですっ! 」
シンクロコードをSさんに渡し
カメラ(ハッセルブラッド)につなぐ
「じゃー 本番 お願いしまー す」と Kさん
パカッ ハッセル特有のシャッター音
何も変化がない…
パ〜ン ストロボが飛び 一瞬 目くらませ状態に なるはずが
シャッター音だけが 空しく スタジオに残る
全員が全員 フリーズ
ワタクシも 何が起こったのか 一瞬 判断できず 止まってた
2回目のシャッター音が 静かに 聞こえた
発光しない…
ワタクシ ユックリ Kさんの方に向かう
ここで 焦っては いけない
クライアントやモデルが 不安になる
Sさん 止まっている
目が 本当に 点になっている
Kさん は ダイジョーブ だ
‘?’ではあったけれど ヒョ〜 ヒョ〜 ぶり 健在
ワタクシ レンズからシンクロを抜き
ストロボ(フラッシュ)メータにつなぎ
スイッチ 押す
パ〜ン 乾いた音がスタジオ中に 響く
数度 試すが 確かに 飛ぶ
ダメだ…
レンズのX接点がイカレている・・・
触ると 接点がグラついている・・・
そろそろ ギャラリー 含め ザワめきだした
普通の場合
ここで カメラマンのとる行動のパターン
「ど〜なってるんだ?」
「何んで〜 ぇ?」
「ちャンとチェックしたんだろお?」
と 恫喝の パターン 多し
Kさん いまだ おだやか…
続く
2005.12.13
ストロボが飛び(発光し)ません!! B
「接点?」 Kさん
『 だと 思います… 』 ワタクシ
少し沈黙
そして 声のトーンを チョッと高めて Kさん
「じゃ〜 バルブで いこか・・・ 」 と アッサリ
『はい っ!』 やるなあ…
「暗転(真っ暗)で・・・ 」
『ワッかりましたッ!』 本気だぞー !
その頃の Sさんは まだ キャリアが浅く
理解できない様なので 手短に説明をしました。
Kさん W尾さんの方に 向かって歩き
話しをしている
「 ここからウオークして ここで止まって ポーズ 」
の様な 会話だと想像
W尾さん 大きな目で 真剣に聞いていた 。
全員スタンスに着く
Sさん カメラ側のアイラン(サービスライト)に手をやり
「あんてんしまーすっ 」
と 掛け声 と ともに スイッチを切る 。
スタジオ 暗闇に包まれる 。
目が慣れると かすかに ホリゾント側が 見えた 。
Kさん 「お願いしまー す 」
パカッ ミラーアップの音が聞こえる
W尾Iさ子さん 歩き出し
止まって ポーズ
「はいッ!」 Kさん
ゼネの発光スイッチを押す ワタクシ
パ〜ン 発光音
ジ〜ジヤカ 巻上げ音
BGMが消された スタジオに
この 静かな テンポが 続く
ホリ(ゾント)は 微かに 明るい
W尾Iさ子さんの 動きは
ユッタリとして 不思議な幻想を見ている様だった 。
続く
2005.12.14
ストロボが飛び(発光し)ません!! C
「ラストワンです」 Sさん
最終カットです。
「ポラで最終確認しま〜す」 Sさん
暗転
パカッ 「はいッ!」 パ〜ン ジ〜ジヤカ
アイラン(サービスライト)が点きました。
ポラを確認した Kさん
「オッケイ! お疲れさ〜ん!」
「お疲れ様でしたぁ!」 全員 合唱
われわれ(Sさん&ワタクシ)に
Kさんが「お疲れさん」と
握手を求められました
その時 突然
ギャラリー席から 拍手が起こりました
W尾Iさ子さんも拍手しています。
ブローニーフィルム 3本
普通なら5分位の撮影時間が
20〜30分 掛かってしまっているのに
拍手が起こるなんって…
予期していなく
涙が出そうになりました。
W尾さん われわれスタッフに駆け寄り
「お疲れ様でした」と 深くお辞儀を
で…
撮影後の酒は 美酒でした。
Kさんの事故に対する
ヒョ〜ヒョ〜振りには
恐れ入りました…
それ以降 ワタクシも
真似しているツモりですが
なか なか です … 。
W尾Iさ子さんは 翌年 T骨飲料のT骨娘
として 大ブレーク
あの頃…
昭和の歌姫 が
川の流れのように 去ってしまった 頃
でしたね 。
チャンチャン!
(長々のお付合い 有難う御座いました)
2005.12.15
閑話休憩
10年以上の 昔 NHKのドキュメント番組で
《S山K信カメラマンの密着取材》を見ました。
S竹映画の名プロデューサーだった
《O氏の1日》を取材している
S山K信カメラマンを密着した番組でした。
朝から夜までのO氏の行動を写真に収める
という 取材でした。
O氏の行動って
まー ヤラセ っていうか…
演出だったンですが (当たり前ですが…)
昼間 広いビジネスビルの手すり際で
O氏が 誰かと 商談しているシーン みたいな…
ストロボが10セット位 スタンバっていて
アシスタントは10名は いたかな…
バタバタ ウゴめいていました。
そして 夜のシーンのカットで
銀座だったと思うンですが…
O氏が公衆電話のBOXで電話している
って いうのを撮る。
現場に到着した S山K信さん
すでに ストロボはセット済み
O氏とS山さん 談笑or世間話をしている
そんな中
チーフアシスタントらしき人が 接近
恐る&恐る と
「先生…」
「ちょっと 失礼」 O氏との場を 少し 離れて
「ストロボが…」 と 手で×(バツ)じるし
「あー そー 分かった」
再び O氏と談笑or世間話
「じゃ〜 」 と O氏を 電話ボックス に 促がす
「夜の街の雰囲気も良いーな
照明ナシで いきますねぇー」
ん〜 で
「は〜 い そんな感じ 良いですね…」
パシャパシャ&パシャ
「はいっ お疲れ様ーぁ 」
さっすっが… ですね
チャンチャン!
2005.12.16
初めてのカメラは‘PETRI’です
サラリーマンを中退して
東京で写真学生をスタートしたんですが
入学して しばらくはカメラ持ってなかったのです。
友人(彼女?)に「貸して」って言っ(ダマし)て
その まんま 返さず
自分のモンにしたカメラがペトリでした。
写真学科に入ったンですが
実は
写真に興味が無く
ただ
親許から離れたいだけの理由で
東京の大学を選んで
《写真》は どーでも 良かったので
カメラの興味は まったく ナシでした。
と
ある日 S山K信さんがTVで
「写真なんてのはね
グーッと
寄ってってバッシバッシ
シャッターを切れば
良いんですよ。」
と迫力のある顔で
ミノルタのカメラのCMしていて
翌日 学校に行くと
みんな そのカメラを持っている
ような 坊々(ぼんぼん)学校でして
ワタクシも よー よー
CMの影響で か
「オレもカメラ 持ちたい な…」
「オレもグーッと寄ってみたいな…」
「オレもアフロで カメラマンじゃ〜」
と 間違えた考えが湧いてきました。
そしてペトリ
でもペトリはクラスメートから
白目ガチに見られました ね
あの カメラ 何処にいったのかな… ?
あの 彼女 どー してンかな… ?
あの頃
♪ペニーレインでバーボンを ♪ よしだたくろう
を口ずさみながら 原宿‘ペニーレイン’で酔ってました。
チャンチャン!
PS ペトリを知っている人の率 20% でしょうね…
2005.12.17
最初に買ったのがスタデラでした @
カメラ(ペトリ)より先に手にしたのがスタデラで
これは 自分の財布から 買いました。
露出計です。
正式には セコニック社 スタジオデラックス
当時
朝&晩は賄(まかない)付きで
住込みの新聞配達員だったワタクシ
(勤労学生?)
成績(セールス&集金率)も優等生だったので
他のスタッフよりも手取りの金額もケッコーで
ほんで もって
金の掛かる生活(よく学校に行く生活)をしてなくて
小金持ちな学生でした。
そんな ある日
一級先輩で友人のヤツと一緒に
新宿のヨドバシカメラに行き
今日は 何かを 買う
つもり
で行ったのですが
ヤツは どーも ライツミノルタを
オレに買わせたかった様子
ライカ社が設計しミノルタ社が製造したカメラで
マニア好み だった と 思います。
でも…
オレが買ってヤツが使う
と いう パターンが見えたので
難癖 つけて 止しました。
確か…
ハンドストロボ(ハンディストロボ)用のシンクロ接点が無く
ホットシューしかないのが『ど〜 も?』でした。
確か 6万円と半分位で
『エイ ヤ〜ッ!』と
清水舞台ジャンプすれば
財布には 可能な金額は 有ったと思います。
小金持ちな学生でしょ 。
続く
2005.12.19
最初に買ったのがスタデラでした A
当時 大卒の初任給が8万円台でした
ライツミノルタが6万5000円で
2004年の初任給が20万円だから
ワタクシの財布には16万2500円は入ってた
って ことになります!!
閑話休題 と して…
ワタクシ 何故か その時すでに
ナショピー
(ピーゴ(PE−5)・ハンドストロボ) を 持ってまして
恐らく 同級生の払い下げ だと思うんですが…
やっぱり
外部ストロボのシンクロ接点は 欲しかった
ので ヤツに強く主張したら
ヤツも妬けになり
「勝手にすれバっ」風で
「スタデラでも買えば…」と
吐き捨て気分でノタまう
『そっか! スタデラかあ… 』
あれは 要る!
みんなが 持ってる!
ブラさげてゝ カッコ良いハズ!
カメラをさげるより プロっぽい(?!?!)
で
スタデラ 購入 。
カメラよりも経済性があり (意味 分からん!)
カメラなら値踏みされる (訳 分かメ!)
何と言っても
シッカリとした
本革のケースが良い!
(理解不能! 戦後派は‘本革’に弱いだけ!)
ん〜 で
それから 半年程は 何処に行くにも スタデラを持ち歩く
お風呂に入る時 以外
供とし&部下のごとく or 友のよに
当然 枕元にも 置きました
バカですね…
新聞配達してる ニーチャンが
首から 大きなゴキブリ ブラさげている 姿
想像して下さい
ったく …
あの スタデラ 何処に いったンでしょう… ?
チャンチャン!
あの頃…
利かないクーラー 新聞屋の 食堂で
TVにカジりついてた10人位の若者が
「ワ〜ッ! 百恵ちゃん シビれる〜 ぅ!!」
なんて 騒いでました
ひと夏の経験
みんな ナウなヤング してました 。
2005.12.20
閑話休憩
キッチュな大阪の味
いか焼き
ご存知ですか?
ワタクシ 肉体&精神的に疲れた時に
何故か いか焼き 食べたくなります
いかの姿焼き と違います
よ
大阪文化の粉モン(小麦粉製品)です
今は 月に2度は わが家で作ってます
が〜
やっぱ
祭の縁日の屋台とか
たこ焼き屋の隅で ドッしりと置かれている
いか焼きマシーンから製造される
いか焼き は格別です ね
関西圏以外の人は姿焼きを想像するハズですが
最近の関西圏なヤングも いか焼き を知らない
という人が多いので 淋しい 限りです。
ワタクシの生家の阿倍野区美章園の
駅の近くにあった 一冨久(いちふく)
という名の たこ焼き屋さんが
店を閉めたというのを 知り
残念で仕方ありません です。
うまかったんだ〜なぁ
あの店の いか焼き
『いか焼き ダブルで… 』って
店を入りながら 言って
狭い 汚い カウンター席に座って待つ と
太巻き寿司くらいの大きさのヤツが
ドーンと置かれる
おっちゃんが焼くと
いつも 小さいので
店に入る時
おばちゃん 焼いてくれへんかなあ・・・
と思いつゝ…
考えるだけで たまンない す
ハフ ハフ ハフ ハフ
チャンチャン!
ps@ いか焼き用の鉄板 売ってます 道具屋筋で
psA
ダブルとは玉子2個入り
psB
阪神百貨店地下の いか焼き なんてメじゃない!
2005.12.21
雪 降る ロケ @
撮影の雪
発泡スチロールの粉を
キレイに扇風機で煽(あお)って
舞い散らす 雪
そんな
絵に描いたような
雪が 今 降っています
ワタクシの居る部屋は
妙に 明るい です
庭の雪がレフレックスし
眩い くらい です
窓を開けてみて
音の少なさに 驚きます
雪の 厚い 防音壁で
町は静まり返っています
閑話休題
近年 大雪が 昼の日中に降るって
なかったことじゃ ないのかな… ?
今朝
8ozフロントは 大童(おおわらわ)でした。
「今日のロケ キャンセル」と お客様から
「バス 止まってしまって 親に車を準備してもらってまっす」
「地下鉄が 停電で バスに乗り換えます!」
「バスが動かず タクシー乗り場も一杯で 歩いていきまーすっ」
とか とか と メンバーたち
引っ切り無しの電話でした。
そう 言えば
元8ozのKさんは
8ozにデビューした当時に
「雪が積もって 家から出られません SOS!」
を 思い出します。
住所的には大阪府だったんですが
山の手(!?)住まいだったンです。
後日 Kさんと その件で 会い
『ど〜 したモンかな… 』って
渋い顔をしてしまった らしー ンです ワタクシ
で…
翌年 大阪市内に
一人住まいのお引越し をし
「あの時 苦労さん キツかった すよ」
と こぼしてました。
閑話休題
ワタクシ 雪降る中での仕事は
一度だけ ありました。
そんな 話しようと思います。
笑えるかも 。
続く
ps 書き終えたら 雪が止みました (11:30)
本日 夜 フロントミーティングですが 寒いゾー っと!
2005.12.22
雪 降る ロケ A
「レフ板 入ってるゾッ!!」 怒鳴るカメラマン
『すいません!』 ゲゲッ やばい… ワタクシ
「おい おい ど〜 したんや 苦労田くん?!」
『すいません… 』
「お前 撮んのん ちゃうで〜 」
ワタクシ どんどん と モデルさんに接近
ついには 反対側まで 行きそお
も お ど お に も 止 ま ら ない
と
話を ちょっと 変わります が …
ワタクシ 海外ロケと寒冷地ロケは
『ゼッッタイに 入れないで』って
マネージャー(妻)に言ってました。
まあ そもそも 出が スタジオライティング系で
ブツ撮りで じっくり ライティングするのが好みで
ロケは空と太陽と新鮮な空気があるから
日頃 スタジオでコモりがち なので
気分転換に「良 っか…」的でした。
海外ロケは 当時 右肩上がりの景気で よくありました。
ただ… 必ず 「ディスカウント」の要求があり
「スタイリストは『タダでも行きたい』って 言ってる」
みたいな 値切りの言葉 ヤ でした ね
国内ロケは 何か発生すると 使い走りのプロですから
買い物や ちょっとした交渉事など 何でも御座れ ですが
外国まで行って 英語ですらオボつかないのに
伊語・仏語圏など 行きたくない
って 云うのが本音でした。
だから「海外ロケ行きたい」派のメンバーに 軽く 譲りました
まあ 『苦労田くん指名で』には 困りましたが…
そこんとこは プロのマネージャ−に お任せしました。
そして
今 ひとつの 寒いロケ ですが…
ワタクシ 寒ガリ でして
ガリガリで脂肪分0%の身体は
寒さに対しての対策は
お部屋でヒッキ〜 が 一番
「北海道で雪の大平原でロケ」なんて 聞くと
『ダメ!ダメ!ダメ!』
『ムリ!ムリ!ムリ!』
そんな仕事が入ると「雪大好き」系のヤツに ポイと お任でした。
それなのに…
今回の話は
伊吹山のロケ
季節は冬
続く
2005.12.24
雪 降る ロケ B
今から考えても あの撮影は
何だったのか よく分かりません
出版社がクライアントだったのは
確か で す
幼児用の…
朝 大阪市内の某スタジオに集合
『おはようございま〜す!』 ワタクシ
「おはよー ちょっと 待っててなあ」 カメラマンさん
打合せ中です
「そ− したら ○○やったら 全部いけますねっ」カメラマンさん
「あそこやったら 良い温泉もあるし ユックリ出来るな…」クライアントさん
「苦労田くん 明日も押さえて(キープして)たよな…?」
と ワタクシに
『あゝ はい…』 二日押さえですが 宿泊とは聞いてない
「一泊二日で 温泉に入ろー やー」
『あ はいっ 』 温泉かぁ 良いかも…
「パンツなんか 向こうで 買おたるわ…」
『はい!』 別に二日くらい …
「ほんま ダイジョ〜 ブ?」
『OK!!です』 元気よく
モデルさん(女性)
スタイリストさん(男性/ちょっと女性)
の荷物を見ると…
どー 見ても 予期していた様に
旅行カバン
このスタッフは
この撮影の常連だろう
と 思われ
出発!
車は
どんどん 北へ向かう
数時間後
回りは 雪景色
麓(ふもと)の駐車場で 降りる
さっぶ〜
そこからは 歩きで 移動
ワタクシ お洒落なので
ドクターシューズなるものを履いている
ツル ツル 氷の坂道
ぜんぜん 進めません
一歩上がって 二歩下がる
どんどん 落ちる
這いつくばう ワタクシ
撮影機材 持っているので
バランス取れません
「苦労田くん オレ 持とっ」
と 見るに見かねたカメラマンさん
とほゝゝ・・・・・
役立たず や ボク ・・・・・
見るに見かねた スタイリストさん
「苦労田くん 靴 貸そか…?」
と
予備の 28cmのブカブカのズック靴(死語?/スニーカー)
で
よー やく
氷道に喰いついて
歩ける
第一撮影ポイント 到着
スケート場
「苦労田くん (足)何センチ?」
『25てん5です…』 が
履くんですかあ スケートシューズを??
(ボク 滑れません )
人も一杯 滑ってる し
貸切ったり しない ん です か ?
許可ナシ?
スケートリンク に 着地
前屈みに
ヨタヨタと
歩く
レフ板
片手に 。
続く
ps 前回 伊吹山って 書きましたが
琵琶湖バレイだったかも…
どっちだって いいんだ 早く忘れたいよ!
2005.12.26
雪 降る ロケ C
皆さん もー お分かりでしょう ね
スケートリンクで
氷上のキレ〜なモデルさんに
レフ板を 当てていた ワタクシ
その レフ板が 帆 となり
金比羅 船 船
お池に帆かけて
しゅらしゅしゅしゅ…
状態
雪風に 何処へ向こう 苦労舟
せっぷうに いづこへむかう くろうぶね
だった とさ
チャンチャン!
と 本日は
もー 少し 報告します。
スケート場以外のアシストも
雪だらけの中 散々でした。
一泊二日の温泉旅行気分で
この撮影に 同行したんですが
ほんとうに まったくのお荷物なワタクシでした。
夜の酒の席で
「苦労田くん よー 動く なー」
『えー ボクはプロですから… 』
って 云う 自慢気な 会話なく
「苦労田くん 大変やったな… 」
『はー 運動神経ゼロですねん 』
って 惨めな 会話バッカでした。
その夜のワタクシ
酒量も ヘンに モリ下がり
温泉に入らず
パンツも着替えず
早々に
布団に潜り込みました。
翌日
雪の無いロケ場所に
変更していただきました。
その節は
ご迷惑をおかけしました。
チャンチャン!
次回…
新年を迎えるにあたり
おめでたい 話を 考えております。
2005.12.27
めでたい お話
大晦日の小火(ボヤ)騒ぎ
阿倍野の四軒長屋に宿替えを終え
やどが
その年の秋 8oz という社名も決まり
又 数日前には 忘年会も 終え
『今年は良い年やったな…』的
気分の12月31日
昼過ぎに 起き出して
ボー っとして
TVを見ている ワタクシ
山口百恵 日本武道館 さよならコンサート
が やっていて
れー (例)のマイクを置くシーンは
見とかんと…
って 思いました。
妻は台所で お節の準備をしています
その時 アラジンのストーブが
ポッ ポッ ポッ ポッ
と灯油切れ状態となり
ストーブの下に
灯油が漏れてもOK!用に
新聞紙を敷き
給油をしました。
まさしく
百恵ちゃんがマイクを置くシーン
給油口から灯油が あふれ出しました
新聞紙に引火
足で踏み消そうとしましたが
ついに
火の高さが
ワタクシと同じになった時
‘怖い!’と思いました。
二階に 駆け上がり
寝室から布団を持って 駆け下りる
「火事 火事 火事」
と 妻が大きな声で叫んで
ついには 表に出ていきました
ストーブは数枚の布団でスッポリ覆われ
鎮火
でも…
妻の大声を聞き付けて
近所中の消火器が
家の裏から 表から
20本くらい 発射されている
勇気ある Tさんは
家の中まで入ってきて
「何処やっ!!」
『もー 消えました 大丈夫です…』
それ以外の人々は
家の外から
無闇&矢鱈に 大放出 です。
消防車のサイレンの音が聞こえました
消防士さんがホースを抱えて入ってきました
土足で… (あったり前っか!)
『もー 消えました 大丈夫です 』
と 同じ事を伝えました
「分かりました… じゃ〜水を一滴だけ 放水しますので…」
『 ほーすい? ? ? 』
「放水証明書(消防署発行)があれば 火災保険がおりますので…」
『あ〜 そ〜 ですか… お願いします!? 』
ポットリ
また
念の為に と 云う事で 救急車に乗せられ
何処かの病院で検査
「異常無し」
ん〜 で
帰宅しよう と して
ここは何処?
& 財布を持たずノーマニー なワタクシ
まったく 見知らぬ 土地
ん〜 で
タクシーに乗り
料金着払い し
家は 消火器の粉だらけ だったのでした。
でっ
どこが めでたい話 や ねん ?
それは…
その夜 町会長のHさんが
「町会から とりあえず 30万円」 ご持参 下さいました。
大晦日の入用で 使い果たした 財布には
あの時の 大金 は
ラッキ〜でした。
めでたし&めでたし
どこがヤねん!
ただの 近所迷惑な話 やん 大晦日に…
ったく…
チャンチャン! & 良いお年を…
2005.12.29