飲み屋の歴史 のA〜 は @以降(の下)に掲載しています。
飲み屋の歴史 @
ちろりん村(あびこ)の時代
30年前です。
当時
毎日に近く
仕事で 呼んでもらって た
南森町の
K写真事務所さんの
Kさん
仕事を終えると
いつも
「行こか…!?(飲も)」
と
心斎橋の鰻谷
【サンジェルマン】
(という 名前だったと思うンですが…)
に 向いました。
ソフト・ジャズが大音量で流れている
バーでした。
よく
バーボンを飲みました。
ボズ・スギャグス
や
ジョージ・ベンソン
メローな曲が 流れてました。
又
Kさんは
お金が沢山ある時に
周防町(確か…)にあった
【KEY BANK】
連れてくれました
半地下で
クラッシクで
英国風で石造でした
ここで
ワタクシも
ボトルキープしました
ボトルをキープしたら
真鍮製のKYE(鍵)を もらえます
それが 目当てで… 。
店に入り
その鍵を見せると
マイボトルが
テーブルに 置かれます。
ちょっと 紳士に なった気分です。
Kさん
「プロとは…」
と云う話
よく していただきました。
そして
その
【サンジェルマン】で
Kさんの目を盗み
こっそり
知り合った
Dデパートガールの女性と
ちろりん村で
同棲を はじめました。
Dを辞め
彼女も撮影現場に
一緒に行き始めました。
仕事を終え
毎晩
二人で
行った店
あびこ駅前
居酒屋
【やまちゃん】(みたいな名前だった…)
カウンター席しかない店
汚い のれん を くぐり
モクモク
湯気を上げている鉄板の
どて焼きを頼み
大量のビール
飲みました。
たまに
リッチな懐ぐあい
なんて
時は
汚いアパートの階下にある
【いろは寿司】で
散財した
ことも
あった。
オヤジが
「今日は ビール 1本 サービス!!」
って
たまに ね
続く…
飲み屋の歴史 A
同棲していた彼女と結婚し
ちろりん村から
阿倍野区美章園に宿替え(引越し)
自宅事務所で
この頃
メンバーが5〜6人となり
自宅で騒ぐと
長屋なので
お隣さんに ご迷惑
自然
近場で 飲むのが 増える
JR阪和線の美章園駅 徒歩50秒
【大丸屋】
今も健在らしく
ガラガラと戸を開けると
湯気やら煙やら
で一杯だった
昔ながらの居酒屋で
よく メンバー全員で 襲撃 しました。
先日
元8ozのメンバーで
今は
プロダクションを経営している
S君と話していたら
「大丸屋の ジャコ飯 美味かった す よ〜!!」
と
懐かしそうに 話していた。
おい おい 酒 飲む とこ やで…?!
ワタクシ 酒のアテは
ほとんど 箸を付けないンですが
【大丸屋】では
いつも
『てんもり』を 注文
天ぷらの盛合わせ
の
その中で
きす天
好きでした。
近鉄・南大阪線・河堀口駅 徒歩70秒
【おふくろ】
赤提灯
カウンター席 6人程度で 満杯
だから
8ozのメンバーとは
あまり 行かなかった けど
妻と二人
ほっ
と したい時に
よく行きました。
注文しなくても
出てくる
季節 季節
の 小鉢物は
心
和む
味
和え物は 特に 。
今は 再開発で無くなって る やろ な
だって
おふくろさんの
年齢も あるし な あ
あの頃で
60才は超えてた や ろ
懐かしい…
そして
細野ビルヂング
に
事務所
移転!
だから
飲み屋も
大移転 だ あ !!
続く…
2006.4.15
飲み屋の歴史 B
細野ビルヂング 入居
メンバー数 7〜8人 の時代
自宅から現場へ
直行&直帰型の
8ozスタイルのはずが
仕事を終えた
メンバーが
「お疲れ すッ!」
と
帰宅するが 如くに
フロントで
缶ビール
ん〜 で
ある程度の人数になった ところ で
くり出すのが
心斎橋
ソニービル&パルコ 東入る
鰻谷北通り 直ぐ
地下一階
【セラバー】
広々としたシックなバー
天井が高く
大きな革張りのソファー
1時間毎に
生ピアノ演奏が ゆったりと流れる
「いらっしゃいませ 8oz 苦労田様 」
と 丁寧に迎えられ
30秒もしない内に
キープしている ボトルと
水割りセットと
人数分のグラスが出てくる
仕事が遅くまで
のメンバーは
こゝ セラバー に直帰するヤツ あり
いつも
10人近くで
ワイワイ
静かな
大人びた
セラバーなのに
ひときわ
騒々しい
ワタクシ達 一角
確か 土曜日のピアニストは
ちょっと 風変わりな人で
キース・ジャレットの
ケルン・コンサート並みの腕前で
ワタクシ 一人 聞き入ってました。
あの店 良かったな… 。
そして
はしご で Go!!
全員 タクに分乗
『新歌舞伎座 へ!』って
運転手さんに伝え
その裏 界隈
地下に潜って
飲み屋集落の
一軒
お釜バー
【白鳥】
「いらっしゃ〜 い 苦ぅ〜チャン 」
野太い声が迎えます
続く…
2006.4.17
飲み屋の歴史 C
こゝは ママ(?) 一人で 切り盛りの 店
わざと と 違ゃう?
と
思う程の
青々とした ひげ跡
カツラやろ?
って
直ぐに 分かる カツラ
お釜なら こんな化粧
みたいな 化粧テク
酒癖の悪い客が
ママに ひつっこく
カラんだりすると
「阿呆か おまえ 帰れ 言う とん じゃッ!」
って
カツラを取って
一喝するのを
何度か 見ました。
ニューハーフ たら 云う
そんな え〜 もん と 違ごて
お釜の芸(ゲイ)です わ
いや ほんま !
バラエティーなTVの進行する タレントさん 同様
喋り続け
ノセて
笑いが
10秒に 1回 おこす
それが 仕事 みたく
【白鳥】
とは
そんな
一種の
カタルシス
だった。
こゝも 10人で満杯なバーなので
8ozメンバーで いつも 貸切!
で〜
こゝが 一杯の時は
お隣の
【ポエム】
ん〜
【セイム】だった かも…
こゝのママは マスターで(?)
男装のオカマ(??)です。
酒井くにお・とおる の
あの「とお〜 る ちゃん!」と
言ってる方 似の マスターでした。
ある時
こゝで 徹夜で 飲んで
翌朝
店の戸締りし
近くの喫茶店で
モーニングを
おごって もらい
フツーの世間話をし
そのまゝ
現場に向った
そんな 記憶 あります。
そう そう
白鳥事件って の あり!
メチャメチャに飲んだ 後に
白鳥に行き
貸切!
今は関西TVコマーシャル界の
女性プロデューサーで有名な
M嬢
そして
今は東京で名立たるプロダクションの
エライさんになっている
S君
この二人
店に入るなり
白鳥のママに
「ママ おいら 手伝う!」
と
カウンターを潜って
あっち側へ
ダイジョ〜ブかいな…
足元 フラついてるで〜
って
思ってたら
S君は おしぼり を用意しようと
しゃがんで おしぼりBOXの扉を
開けようとした時
M嬢
突然
「お゛ゝ ゝ え゛〜 ッ 」
と
嗚咽
と共に
ゲロンパ
S君の
頭から
肩から
大変
口では言えない
姿に…
あ
ゝ
ゝ
スパゲティー
や
ん
続く…
2006.4.18
飲み屋の歴史 D
8ozメンバーで出動し
白鳥で 座りきれず
隣のポエムでも
全員 着席 出来なかったら
こゝ地下のお釜バー街の
4〜5軒の店に分かれて
飲み始め
だんだん と
席が空いた
白鳥に集まりだす
システムを編み出しました。
「あら 白鳥さん の お客さん
今 白鳥さん 一杯なん?」
みたいに
みんな 良い店でした。
また
ある時
ノリで
電車が無くなる時間まで
飲んでしまい
すぐ
横にある
ラブホに
メンバー全員で
泊まって
翌朝
順々に
現場に出動 なんて ことも
あった ね 。
ところで
最初の一軒目の
セラバーで
薄暗い照明が
パッ
と明るくなる時が
客の追い出し
店仕舞い
おしまい
の合図
22時です。
飲み足らず
メンバーが 多く
ノリ
が必要な時は
新歌舞伎座の裏
白鳥 へ
メンバーが 少なく
しんみり
話したい時は
向かいにあった
古い建物
永恒ビル
地下1階
【サイドバンク】
へ
こゝは ショットバー
こゝは ギョ〜カイ人 多し!
続く…
2006.4.19
飲み屋の歴史 E
「苦労ちゃん あそこ ワタシラの
縄張り やから 来んといてッ!」
と
ある撮影現場で
オネ〜言葉で喋る
ヘアー&メイクさん(男)に
(冗談で か?)
言われました ね 。
って
そういう Bar でした。
ギョ〜カイの隠れ家
みたいな… 。
でも
ワタクシも
何度も
何遍も
隠れ家しました
オネ〜様に なんと言われても 。
この
永恒ビルには
古めかしい
エレベータがありました
フランス映画に出てきそうな
鉄製で中の人が見える
アコーディオン式ドアのやつ
風合いのある 素敵な ビルディング&Bar でした 。
ん〜 で
ミナミは この辺にしといて
キタは と 言いますと…
今は無き
【呉春】
ですね!
お初天神通りを
歩いて しばらくの路地 右入る
渋い佇まいの名店でした。
一月くらい前
元8ozの岡クンと
しんみり 話そ って
go to 呉春!
と
店の前に立って
ビックリ!
全然 違う屋号の
ハイカラな店になってました。
れれれ の れ ?!
続く…
2006.4.20
飲み屋の歴史 F
今は無き
呉春
の
扉を
ガラガラと開たら
今は無き
桂枝雀さん
が
入って直ぐの
カウンターの隅に
座ってハルことが
よくあった
着流しで
カウンターに寄り掛かゝって
はった な 。
値段の書いてない
木の札に
旬の肴を
手書きして
ブラさがってました
こゝは
接待用(?)っぽい
お店です
居酒屋やけど 。
そも そも キタ で 飲む
って
ゆー のは
お相手がキタ方面で
その方に合わせて
選ぶンだから
ちょっと
ヨソイキな気分な
人&場所です。
この キタで 少し カジュアルな飲み屋
というと
呉春の 少し先の角を左の曲がって一軒目
【霧笛楼】
正式には
霧笛楼 明治屋舗
で
むてきろう めいじやしき
って
読むらしい
現役です。
出来た当時
“SINCE 1982” って書いてあるから
24年前には
よく
行ってました。
明治の町家を移築した建物で
当時にしては
珍しい
コンセプト居酒屋 です
靴を下駄箱に入れ
鍵を閉めて
テーブルに鍵を置き
座る
ずー っと
ビートルズのBGMが流れ
見渡せば
骨董品が
これでもかッ!
って くらい 陳列されています
ま〜
品が有る から
許します。
おススメです。
前回 書いた
元8ozの岡クンと
こゝに入りました。
ワタクシ
『まだ この飲み屋 有ったンや…』
と 感無量!
岡クン も
「いいな いいな…」って
しきりに
言ってた
よ 。
ついでに
その後
はしご して
2軒の Bar を
岡クンに
連れって もらっちゃったり してぇ
この場を 借りて
ありがと でした 。
続く…
ps ところで 岡クン 読ンでるか…?
2006.4.21
飲み屋の歴史 G
ミナミ キタ の 次は
天王寺です
やっぱ
自宅が 阿倍野区美章園
だったので
天王寺駅界隈も
ワガ輩のテリトリー
洋風居酒屋 (古ぅ!)
【仏蘭西】
天王寺駅の歩道橋から
通天閣が見えます
もー ちょっと
西
え〜 っと
つまり
左
に
パーンすると
最初に見える
ビルが
ジャズ喫茶&Bar の
トップシンバル
が地下一階にある
アベノロータリービル
ほんの ちょと だけ
左にパーン
地下鉄5番出口の真上に
仏蘭西
が ありました。
この歩道橋から手が届くほどで
温室の様にガラス張りだったので
店内が丸見え
25年程
昔
夜の9〜10時頃に
この歩道橋に立って
仏蘭西
を 覗くと
ワタクシ達
8ozが
バカ騒ぎしているのが
きっと
見えたことでしょう 。
んで
もー
ちょっと
パーンすると
ホテルエコー
で
国道25号を
さらに
パーン
アポロビルが見えます
この10階
吾作どん
(さっき ネットで調べたら まだ ありましたッ!)
はじめて
雀の丸焼き
や
イナゴの焼き物
食べた処
『生ビール!』って 注文すると
店中で
「生ビール一丁!」
「生ビール一丁!」
「生ビール一丁!」
「生ビール一丁!」
と店員さん全員が合唱し
とても
気持ち良かったのを 思い出します
8ozメンバーに
よく
言ってました
『現場でも こんな感じで いこや!』
『ガムテ(を)取ってって 言われたら
黙って渡すンじゃ〜 なくって
はい ガムテ! って 元気に なあ 』
よく 言ってました…
アポロビル10階から
ティルトして
地下2階
魚市
安い! 美味い!
の
見本みたいな店です
魚の肴が 良い っす!
(この店も現役!)
よく
大人の人(お客様)を
お誘いして 行った 店 です
こゝのオヤジは庶民派で
分かりやすい人だった
たまに
すっぽんの血を赤ワインで割った のを
「サービス!」
って
テーブルに置くンです
が…
ね… ぇ
続く…
2006.4.24
飲み屋の歴史 H
アポロビルの裏
阿倍野銀座を
少し路地に入った所に
aaがあります
1階はカウンター席だけだから
大人数の8ozは
いつも
2階のテーブル席に座ります
メンバーが
「腹 減った〜 ! けど 酒も飲みたい!」
状態の時に よく行きました
でも…
いつも…
ビール 飲んで
喋ってばかり
テーブルの皿達には 目もくれません
おい おい !
餃子6人前 ど〜 すんねん?
鳥唐3人前 どや ねん?
海老チリ とっくに 冷めてる で!
酢豚 も…
ニラレバ も…
aaといえば こんな話 !
『おばちゃん ラー油の中に ゴキブリ入ってる でぇ!!』
「あゝ 兄ちゃん 出しといて…」
って
ね…
思い出しました。
ん〜
で
も
一度
天王寺の歩道橋に 戻って
アポロビルを左にパーンします
ちんちん電車の発着駅が見えます
もっと 左に
近鉄百貨店
も
パーン
生駒山が見えます
でも パ〜 ン パ〜 ン
で
昔の
天王寺ステーションビル
が 見えますか?
今の じゃ〜 なくって
そのビルの最上階
都ホテルのレストラン&バーラウンジ
あり
こゝ 入ると
「いらっしゃいませ 苦労田様 」
「いつものワインで よろしい でしょうか? 」
って な 具合 でした
ま〜
よ〜
行った
ちゅうことですワ
ポムドールたら ゆ〜 赤ワイン
直ぐに
テーブルに置かれます
初めて店に行った時
ヘンなスプーンみたいな のを
ぶら下げた ソムリエたら云う ジェントルマンが
色々なワインを
試飲させてくれ
その中で
ポムドールたら ゆ〜
キューピットが飛んでいるラベルシールのを
決定!!
の ハコビとなりました。
続く…
2006.4.25
飲み屋の歴史 I
当時
第3次ワインブームの頃でした。
自宅では兼価な
シグロの赤ワイン
麻布に包まれた
1,200円くらいの
スペイン産
辛口で渋味のあるワインです。
で
天王寺都ホテル
Barラウンジ
ソムリエ様が いそいそ と
出して くれる
ポムドールちゃん
だから
きっと
高級!
って
勝手に
思ってました ら
町で売ってるのを発見!
シグロのちょいマシな値段だった ので
落胆
「おいらの 舌 は 安物 好み… 」
まー ぁ
ぜ〜たく な
ホワグラ(フォアグラ?)だの
キャビアだの
テリーヌだの
チー盛り(チーズの盛合わせ)だの
と
アルコールが入ると食べないクセに
テーブル一杯に注文
きっと
ソムリエ様&スタッフさん ら
笑って た こと でしょう (淋笑) ←止めとけ ガキのメールか!?
こゝも
大人(お客様)と談笑処(商談?)でした。
突然ですが
こゝで
転宅します!!
大阪市阿倍野区美章園
から
兵庫県芦屋市松浜町
へ
8ozがテナントとして
入居している
細野ビルヂングの
オーナーの
細野さん
言いました
「苦労さん うっとこのマンションに住み〜 や?」
って
芦屋公園前
松並木を望む
浜辺のマンション住まい
ヴィラという名の付く マンション
昭和モダンなタイル張り
細野ビルヂング 同様
アンティークです。
日本の長屋
から
西洋の長屋
へ
で
やどがえ(引越し)
で
飲み屋さんも 移動!
続く…
2006.4.26
飲み屋の歴史 J
芦屋川の河口
浜芦屋ヴィラがあります
歩いて1分ちょいで
小じんまりとした
磯に出られます
建てられた 当時
幾何学ザインのタイル張りで
海辺の高級マンションだった
の
でしょう
まー
マンション と云う 様式が
無かった時代
高級アパートが せいぜいな 時代です。
昭和45年
芦屋川の東側一帯を
埋め立てされ
そして
時代が経ち
ついに
レトロなマンションと
なったのでした
でも
とても 素敵な 住み心地でした 。
あゝ
飲み屋の 話です ねっ
【ひまわり】
このマンションから歩いて
30秒
海の家
です。
え〜 っと
ちょっと 説明が必要です ね
元海の家です
当時は 浜茶屋 って 言ったそうですが
【ひまわり】の前は
広々とした浜辺で
浅瀬の海水浴場
喉の渇いた
海水浴客が
ラムネ
三ツ矢サイダー
バヤリース・オレンジ
それに
かき氷
小腹の空いた人には
関東煮
や
焼きそばも
あり
そんな 【ひまわり】 は そのまゝで
前の浜辺が
埋め立てられてしまい
今の【ひまわり】の 前には
コンクリの土手
でも
【ひまわり】の姿かたちは
そのまゝ
店先には
お決まりの
ベンチとパラソル
軒先の
『アサヒビール』のロゴ入り
ぼんぼり提灯ら も
暗くなれば 灯ります
し
古いかき氷機も働いている
恐らく
関東煮の鍋も
当時から 使い続けたモノでしょう
そして
そこで
毎晩
毎晩
飲んでました
仕事が off 日は
昼下がり から
ビールを飲みはじめ
落ちゆく陽のグラデーションを楽しんだものです
日が暮れ
三々五々に
界隈の いつもの 老人達が
このサロン場に集まります
で
よく
「あの頃… 」
「当時は… 」
「あの時代は… 」
「昔は… 」
と
大儲けをした話
大損をした話
有名な人に
モテた話
フラれた話
子自慢
磯自慢 (?)
な
話を
沢山
たくさん
聞かせて
もらいました 。
『おじさん それ 何度か 聞きましたけど… 』
も
有ったっけ
続く…
飲み屋の歴史 K
長男 誕生
に
ともない
妻は
マネージャ職を辞し
育児&主婦業を専任
ん
で
飲み屋の勘定(支払い)は
いつも
妻がする
仕事だったのが
以降
ワタクシの役になりました。
ワタクシ
基本は
ビンボ〜性です
ワタクシ自らの財布と
なると
飲み屋の選択も
チープ&リーズナブル優先
と
なりました。
ま〜
この頃から
ワタクシ
畳に座らないと
飲めない人間になり
座敷のある
細野ビル 近く
昼間は 蕎麦屋さんの
M
実は
実名 書きたいですが
現役の お店 です
良いことが書けなさそ〜 なので
伏せさせて いただきます。
蕎麦は いたって 好きな ワタクシ
でも
こゝの蕎麦
1〜2度 食べた記憶しか …
(ど〜 ゆ〜 意味?!)
Mに
毎晩 行きだしたのは
息子が 今 高3なので
17年くらい前からです
Mは
8ozメンバーの評判も
×
で
ダメ出しするメンバーに
『ほな フリールーム(8oz内)で 缶ビール に しよか?』
って
脅します。
閉店時間 9時(21時)
わてら
そんなン
序の口やから
いつも
追い出しを 喰らいます
座敷以外の
土間の席の
椅子はテーブルの上に置かれ
オナー店長が こちらを 睨んでいます
そして
ついに
「大将(ワタクシ) も〜 終わりにしてぇ…!」
て
声が 掛かります
『最後に も〜 一杯っ!?』
「堪忍してぇ…!」
毎夜 毎夜 繰り返される フレーズでした ね 。
追い出しを喰らって
次に 行くのが
隣り
の
牛鍋屋
ウシナベ って名やったっけ… かな?
この店は
ワタクシ
好きくナい 店でした
だって
座り心地が とっても × な 硬さ
メニューも
ヤング向けの
無国籍風
オールナイトの店で
仕方なく
最近
こゝは
店仕舞いしたので
店の名前を書けます が
えッ!
チェーン店やった っけ?
お許し を 。
あゝ
そう そう
Mが
数年前に
リフォームして
壁やら畳やらが新しくなり
照明も明るくなってしまい
ました。
それ以降
行かなくなりました
あの汚さ加減が
好きやったのに 。
ほんで
から
M
のリフォームで掛かった費用は
ほとんど
8oz全員参加で
協力したンだと
心で
思もと〜ります
毎晩
毎晩
に
続く…
勘定する人 変わったら 急に シケた話になった なあ…
2006.4.28
飲み屋の歴史 L
細野ビルヂング界隈で
チープ&リーズナブルに飽きた頃
心斎橋で【一献】を見つけました
15年 前 頃
カメラのナニワを
も少し東に
店の前に
大きな白い暖簾が
ディスプレーされ
古民家仕立てで
気になってたので
勇気を出して
えい! やー !
入ったンですが
Very Nice!!
でした。
飛騨高山の民家から持ってきた
二抱えもある 天井の梁の木
全体に煤けた感じで
落ち着けました。
今では
ちょっと
当たり前的になってますが
冷凍庫で冷やしたグラスに
生ビールが注がれる
スタッフは作務衣
店を仕切っている
ヤング女将風な人は
物腰柔らかで
着物姿
肴 全品 旨い
器も
Good!
ただし
値段も
それ
そー と−
でした。
でも
今は
無い
最初の頃
2階の座敷は
広々とした広間に
衝立で 仕切られ
隣の客との間隔が2メートルは あったのが
ある時に
1メートルになり
仕舞いに は
30センチとなる
30センチの頃になると
しゃぶしゃぶ 焼肉 すき焼き が メニューに載り
しばらくしたら
肉 食べ放題!!
お代わり自由!!
になり
「ね〜ちゃん 肉 追加!」
と
頭にネクタイ鉢巻している よー な
リーマン集団の御用達に
成り下がってしまいました。
その頃になると
ワタクシは
3階にある
個室の座敷に移りました。
そして
店仕舞
消えゆく 店の グラデーション
見たような 気 します 。
蕎麦屋のMは
メンバーとグロスで飲む
一献は
目上の人 と
それか
メンバーと真剣話をする時
に…
使分け 。
そー そー
一献の向かいのビルの
6階にカラオケ屋が出来ました
メロディー
って
名前 やったかな…?
続く…
2006.5.1
飲み屋の歴史 L
副題 カラオケ
「苦労ちゃん 歌い〜 や! 」
って
初めてマイクを渡されたのは
スタジオJのKさんに
連れって もらった
西区の桜川か
大正区だったか
絵に描いたような
場末のスナックでした
『ぼく 歌 あきません ねん… 』
と
言っても
聞きいれられず
「おれ 選曲 したるからッ !」
と
勝手に
【そっとおやすみ】
VHSテープを
すこし小さくした様な
通称ハチトラ
8(エイト)トラックの
カセットテープを
ガッシャ〜ンと
機械に入れる
しゃ〜 ない から
歌います
けれ
ど
も
なんで
歌唱力 絶大な
布施明
なんか
選ぶ ねん…
と
ニチャニチャと
油っぽい
ビニールに保護された
歌詞本に
目を落とし
たどり たどり
小声の 猫背で
歌っていた姿
それが
ワタクシの
カラオケ初体験
昭和54〜5年だったと
思います。
あゝ
説明します
この頃
TVモニターは
無し
で す よ 。
Kさんは
よく 焼肉屋 にも 連れって くれました
はじめて ミノ を 食べ
どのタイミングで飲み込んで良いのか分からず
いつまでも いつまでも
噛んでました
「生レバ 食べた 次の日は 調子 エゝ ねん で〜 ぇ!!」
「疲れ 吹っ飛ぶ から 食べてみ〜 !」
なんて ね
ありがとうございました。
話
変わって
場所は北新地
「苦労ちゃん Jazz 流れてる Bar 行けへんか… ? 」
って
誘われて 行った 店が
雑居ビル 3階にあった
店は
天井は やゝ 高くて
広い空間 なのに カウンター席 だけ
全体が
鏡面っぽく
エッジが立って
ハイテクな感じの店だった
うるさくない程度に
モダーンジャズが流れ
少し 太めな
おばさまがママで
ひとり
やっていた店
こゝを誘ってくれた
S社のYさんが
このママに
ちょこ っと
ホ
の
字
だったンかな…?
と
思ってました。
ワタクシも
ボトルをキープし
時々
Yさん やら
大人気(おとなげ)な人やら
たま
に
メンバーと
も
通うようになりました。
そして
その店の一角に
マイクスタンドが置いてあり
TVモニターがその前にあり
で
大きなモニターは
ママの頭上にセットされていました。
その頃
直径30cm
LPレコード並みの
絵に出るカラオケ
レーザーカラオケ
登場!
昭和60年だった
と
思います。
続く…
2006.5.2
飲み屋の歴史 M
松山千春 恋
を 歌うと
レーザーカラオケ
絵の出るカラオケは
赤い襦袢(じゅばん)の女の人が
エロっぽく 艶めかしい 姿で
ウゴめいている
大人びた歌は
必ず
エロ画が出てくるので
ヤンにくかったです
8ozは女性スタッフ 多々 です。
そんな時は
元気良く!!
チェッカーズ や マッチ(近藤真彦)
矢沢栄吉やCAROLの曲
世良正則&TWISTの
や
名前は知らンが
♪そして僕は途方に暮れる♪
や
♪やっぱ 好きやねん♪
あッ!
↑
これ
アカン
H画 出てくる ぅ
ま〜
いずれも
古い曲ですね〜 ぇ
北新地の
暇なJAZZ BARで
いつも
いつも
カラオケをやっていた
ワタクシ
しばらくしたら
巷(ちまた)で
カラオケBOX 流行りだす
通信カラオケ
選曲の待ち時間
ほゞ
0秒
東心斎橋
一献の向かいのビル6階
カラオケBOX
メロディー
(という店名だった と 思います)
こゝも 毎晩 行きました ね
一献を終えて
徒歩 10秒
ドッと乗り込みました。
あの頃
新聞・メディアでは
バブル崩壊
って
さかん
騒いでいました
が
東京ではジュリアナが騒がしく
米米クラブが華やかに
ドリカム(DREAMS COME TRUE) が 負けじと
最後の晩餐
を
狂ったように貪っていた
ん
ですかね… ?
1990年代の最初の頃
明日は 晴れたらいいね どんなときも 君がいるだけで 愛は勝んだから…
続く…
2006.5.8
飲み屋の歴史 O
阪神大震災 1995年
以降
飲み屋の歴史は 終焉
365日
24時間
の
電話受付
を
始めてから
8ozのメンバーと 飲み歩く ことは 無くなりました。
あゝ
ワタクシ 一人で 飲み屋に入った こと ナシ です。
こないだ の
浅草の夜 が
初めて なん です 。
終り
2006.5.10