今朝のテレビ「感動をもらいました!」「ありがとう!」と、やかましいまったく興味の無かったワタクシには「もらった」ら…、返さないと…もらいっぱなしは、いつかバチ罰が当たるよ…それに「ありがとうー!」ってそのまんまにポッポにナイナイしてたら貰い乞食になり下がると、思います…今朝、向かいの中学校の登校の時間に洗濯物を干してた作物さんが言いました「クールな子が通ってた」と「『あの垂幕、もー終わってんのに…』だって…!?」大阪万博に1度も行かないことを誇りにしているワタクシも、その少年に、同感します。
きのう ティーチャーをやりました。6月22日のヤツより、ましでしょ…?本当は教鞭を振るうのが仕事なんですがワタクシが勉強中です。はい、すんません…
きのう、なんばを歩いていたら旧ロケット広場で撮影イベントに出くわした。なんでも、飲料水の立ち上げイベントのようで「無料で1本差し上げます!!」とキレイなお嬢さんの大声に、大勢のヤングが行列。その横では原色系のバック紙が垂らしてあり大き目のバンク・ライトが2灯(お!おっ!)(業界やん!)と思ったが、素通りを決めたのに妻である作物豆さんが… 動かない。あちこちをキョロキョロ見ている作物さんに(素人とちゃうねんから、止めよぉ…)と思っても電信柱の臭いを嗅ぐ子犬のように、動かない…で、仕方なく、腹を据えて業界的チェックを。(あ!あっ!)(東京の機材屋さんのgoodsや!)(東京クルーかあ… )(大阪、使ぉて〜や!)(おーっ! カメラマン、外人やん!)とか、と、考えながら「たぶん、日本全国の巡業のキャンペーンやからいちいち地元スタッフをキャスティングしてたら面倒やろ〜な… 」と、妻と納得す。そんなこんなで、しばらくし…携帯に連絡があり、出ると「今、京都にいるんだけど…、会えますか?」と元8ozではあるが、日本で有数のカメラマンになったU君からで「きょう、あす、なんだけど…?」だったんです、が『あかん…、両日共に昼夜共に、多忙や』と答えましたが、ほんと 残念でした。でも、よくよく考えたら…U君も京都までドサっと回って京都で稼いでいる…あっ!あの、なんばの飲料水メーカーのメイン撮影を受け持ってたはずだ、確か… U君。嗚呼…大阪人、使って下さいませ、お願い!
数日前に町内地図が配布されて我家にある。Googleでもこの程度の精密な地図に慣れているはずなのにB2サイズのキッチュに印刷された地図は 何故か素敵です。我家の所には「黒田」と、ド〜ンと書かれていて( 引越しして、4ヶ月やけど、もー書いてる ウンウン! )と、ヘンに納得したり。お隣さんより少し大きい四角なので( そー、そー、うっとこが5平方メートル、大きいねん! )とか、とミョーに得心したりです。神戸・三宮に26階建ての高層ビル「貿易センタービル」があります。バブルの真っ盛りに、このビルにテナントで入居した知人に部屋を案内してもらって、すばらしい眺望に愕然としました。「この景色、見てたら、世界をとったような気分になる…」と、そんな風なことを言われていて( なるほど… )と同感したのを覚えています。そして、応接間には地球儀がドンと置かれてたのも、納得。世の中の偉人とか云われる人の小道具は地球儀が似合いますね。日本でなら、壁全面に全日本地図が貼ってある、なんてね… 。「貿易センタービル」の感動をそのままに生まれたばかりの赤ちゃんだった息子への土産に地球儀を買いました。いぶかしがる妻に「クルクル回るから、こいつ、よろこぶやんほんで、これで遊んでたら、いつか、世界を征するかも知れんし…」と……そんな、こんなの今現在は…このあたりの地図を見ながら( ウン!ウン! )と征しているこのごろです。ついでに、20才の息子は至って凡人です。
きょうも疲れた、とは言いませんが文章にできるほど整理はできていません。2時間半を集中させる気力を2cuts分、こなした…でも、「あがり」を見たら 反省ばかりです。
きのう ティーチャーとして撮影した。いろいろと 疲れた。きょうは とりあえず 写真だけだ。あした 元気なら コメントを書く。
粉浜の8ozからぼろぼろ酔いで与太歩くどこかしもの町の家の窓から奇声 聞こゆ帰宅してテレビをつけたらあれ、やってる…
さきおとゝいの風のある午後の晴れ間カラカラと音のする缶を振り回しブラウンとコーヒーブラウンに染めました。これにて向こう3年間くらいは靴を選ぶ煩わしさがデリートです。大国町からドクターシューズが消えたのは昭和の60年頃。10年間近く、足繁く通ったあの問屋街から忽然と各メーカーのあの靴が消えてしまいました。恐らく…、好景気に向かってゆく世の中に( 1万円以下の靴なんて…、ちっ! )だったんですかね?それ以来 どこの靴屋さんにも見かけませんでした。数年前、ネット販売しているのを知りました。でも( いまさら… )と、見送っていたんですが最近、お気に入りの靴、bPとbQの両方が雨の日に履けなくなりました、つまり、水漏れです。で、大阪に引っ越したことだし久々に大国町に行こうぜ!って、ネット検索…「トミヤマ倒産」「靴の問屋、消える」と出ていて( えっ!? )とばかり、軽い目眩を覚えました。手に入れた「ドクターシューズ」と消えた「大国町」そんなこんなが頭の中でごちゃ混ぜとなりこんなに、長々がしい文書となってしまいました。ほんとうは、この倍、書きたかったんですが妻の作物豆さんから「いゝかげんに…」とイエローカード。お付き合い、ありがとうございました。
A.「面白いなぁ、その靴」B.「ちょっと、履いて良い?」C.「シュミ、イイネー、イタリー?」外人モデルD.「どこで 売ってんのん?」E.「へーー…」F.「ふ〜ん…」とおおむね、ドクターシューズは好評であった。なかには「現場に革靴は、ナイやろ…」も。大国町の靴屋、チンピラ気取りの店員さんが「あー、これ、お医者の先生の履く専用の靴脱ぎ履きしやすーうて、見た目、革靴やから、患者にもカッコつけられるし、なー せやけど、最近のお医者の先生、スリッパしか買わへんな…」と、説明してくれた。こげ茶を買って帰り、気に入ったので、翌日、黒色も買いに行った。たまたま、同じ店員さんの対応だった「きのうの、あの靴の… 」と切り出し、説明すると片方の眉をキュっと上げ( どこが 良いんだろうね、あんな靴の…?)と そんな 風だった。
「ドクター・シューズ」をはじめて買ったのは靴の問屋街、大国町。昭和50年になった頃どこにも所属したくなかったのでフリーになりました。靴の脱いだり履いたりの多い仕事柄なにか良い靴はないか… と 探していました。その頃、ジョギングシューズが流行りだしデッキシューズもチラホラで派手目のお洒落な人はL.Lビーンのハンティングシューズと、それぞれにゴム底の厚いのが主流でした。ワタクシはアホのひとつ覚えの本革靴で、それに革底好き。モカシンは田舎もん風だし、コインシューズはフツー過ぎる…嗚呼… と僕らしい靴との出逢いを待ち侘びる日々をおくっていました。
源ヶ橋商店街の靴屋のオッチャンが言った『大国町』が『アレ』なのは、卸売りで在庫が豊富そして、市価の3〜5割とめちゃくちゃに安い。お母ちゃんがボソっと「大国町って、あれ、やしね…」と、靴屋の店先でつぶやいたのは( 釜ヶ崎の近くで労務者が多くって、危険な地区 )だった。晴れて、取寄せたコバルトブルーの前ゴム靴はしばらくは、とても素敵だったが、半年もすると口がパックリ開き、ずゞ汚れたいつもの靴と同様に有難味が消えてしまった。そして残ったのが「大国町」の「あれ」というフレーズだけ。行動範囲が広くなった、中学生の2年。「靴、買いに行くけど、行けへんか?」と、友人に誘われた。場所をたずねると「大国町のトミヤマやん!」とさも当たり前のように返ってきた。「あれ」が見れるのか……はじめての「大国町」の体験は楽しかった。町中、靴だらけ。安全靴、白と赤茶のコンビ靴、先の尖ったエナメル十二文30cm以上もあるドタ靴、豹柄のピンヒール店の奥のホコリだらけの中にも、色々あってキャキャと見ていたら「に〜ちゃん、買えへんねやったら、帰ってや…」と叱られたのも、楽しく思えた。革の匂いと、靴の塗装臭が溢れていて世間知らずの僕には異次元で異空間な体験だった。
「大国町やったら、アレでっけど、ね…」とオッチャンは言って、靴をしまった。「子供用やから、十文(ともん)までしか置いてまへんねん」「十文半(ともんはん)やったら、取寄せになりまっせー」「10日ほど掛かりますな…」オッチャンはそう言ったが、僕は今すぐに欲しかった。生野の源ヶ橋商店街のにある靴屋さんでの話しである。昭和30年代の中頃僕が小学3、4年生だった。学校で塩ビのズック靴が流行りだした。クラスの子が白い塩化ビニール製の前ゴム靴を履いて「ほら、水、はじくやろ」とワザと水溜りに足を入れて見せた。周りの僕らの履いている布製のズックは雑巾のようにずゞ黒く靴先やら、甲の所が破れてるのが当たり前であった。水滴が虹色に輝いて、さっきより真っ白く輝いて見えた。「合皮の靴はムレて、足に悪いから…」とへんな説得を哀しげに言う母親に『値段、高いから、買われへんねやろ!』と大きな声を上げると、後ろから兄のゲンコツが飛んできた。欲しいものがあると、癇癪持ち(かんしゃくもち)になる僕だった。
愛知県の車のメーカーのスタジオで約3ヶ月間の仕事をしたとき、きし麺に出会いました。昔、そんな哀愁話を書きましたね。徳島県は祖谷渓、あの有名なかずら橋上で大雨の中、ロケをしたときに半田素麺に出会いました。そんときの哀愁話は「また…」にします。半田素麺はうどんより細く、素麺より太いのでチャンプルにも、冷やしでも、釜揚げでもOK!です。4月に3kgのが届いて、現在残は2束200gなので今回は5kgで、チョッちハイクラスのをdooont!!と頼んでみました。
きのう、録画しておいた『古畑任三郎』を見てゝ冒頭で古畑任三郎が一人語るシーンで「自動販売機で烏龍茶とコーヒのどっちを選ぶか迷った時は2つ同時に押してみること」と言ってた… ウン、ウン! ある、ある!「欲しい気持ちが強い方にチカラが入るようです」って… うっそー! ほんと? うっそやー!!「ガタン!」と、落ちたのと違う( あっちが良かったのに… )と、いつも思ってしまう悲観主義者のワタクシです。6月11日は住吉大社の初辰参りの日です。次で5回目のお参りになります。参拝ルートの最後、第四番目に「大歳社」がありそこには「おもかる石」とゆーのがあり願いをかけて、その石を持ち上げると「軽く」感じた場合は 願いが、近い未来に叶う「重い」と感じたら、叶わん…… らしい。。。ワタクシの願いは毎度々々、同じで『大富豪』で…『億万長者』だし…『金満家』でもあり…絶対に『大金持ち』なので…「おもかる石」にはチャレンジしたことナシ!!なんです。重かっても、軽かっても、あれなんで。。。
きのう、きょう、とTVのニュースは偉い人の辞任でもち切りですね。大阪、梅田駅前で街頭インタビューされた大阪のおばちゃん「え゛ーー!!」とか騒がず「鶴は千年、亀万年、鳩は一年やんかぁ…」とうまい! さすが 大阪のおばちゃん!少し前は「鶴は千年、亀万年、鳩は天然」ゆーのんありましたね…むかし、平和ラッパさんの漫才で「鶴は千年、亀万年、天王寺の亀、豆噛めまんねん」ゆーてはりましたし「鶴はせんべい噛めまんねん」ゆーのんとか…鳩山様、すんません…。
「オレら、ヤカラとちゃうねん、からなっ!」うしろの席から、幼さが残るというか未おっさんな声がファミレスに響いた。振り返ると、4〜5人の不良少年グループの集いだ。青年だったかも…全員、ダーク系のジャージの上下着用。ひと仕事を終えた、ワタクシポッカリ空いた時間を埋めるのに通りすがり、はじめて入って店だった。「ちゃんと スジ 通しとるねん、こっちわ!」どうも「上納金」のような物の催促のようであった。「ヤマシタさん」に納めなければ「怒られる」とこの部分だけは、けな気な少年風の言葉だった。「ヤカラ」という言葉…最近、バラエティの番組で大阪芸人がよく使っているようですが暴力団、ヤクザ、チンピラのような意味だと思っていましたがどうも違ってたようですだって「ヤカラ」さんが「ヤカラ」を否定しているのを今、聞いてしまったから…30年前に東京から大阪に戻ってきて現場で、面と向かって「どんくさぁ〜」って言われたとき( ぼく、犬のウンチみたい、ですか?! )と、ド〜ンと落ち込んだのを覚えています。はじめてきいた言葉、「どん臭い」だった。後輩から「ツレが表で待ってますから、帰ります」と聞いて( 嫁さん! 彼女? )と驚いてたらただのダチだと聞いて( やっぱり… )と、ひと安心ワタクシ的大阪弁解釈は「ツレ」は「ツレアイ」で夫婦か恋人同士の相手の呼び方だったので…反対に東京から戻ったときの話ですが「ジャッカン」がワタクシの仲間で流行っていた「ジャッカン」は「若干」で「多少」のような言葉でチョッと前に流行った「ビミョー」のような曖昧言葉撮影現場で「もーチョイ、右!」と、指示されて『ジャッカン、右ですね』とカメラマンに返す「気持ぉーち、左!」に『左、ジャッカンです』と答えしまいに「苦労田!そのジャッカン、止めろ!!」でした。言葉って、時代々々に流れているのですね。だって…、なんたって、チョベリバですもんね…。
この言葉を初めて聞いたのは3〜4年の昔になります。なにをオーバーに、騒いでるの…!「近々、第3次世界大戦が起こる」と云う説くらい、馬鹿にしていた。去年の新型インフルエンザ騒動はWHOや厚生省から発した風説の流布?5月9日に成田帰国の「兵庫の高校生」が端を発し6月19日に「普段のインフルと同じです」宣言を厚生省が発表するまでの1月余り…8ozもマスクの確保に必死になり県外の親戚にも「あるだけ…」とか「あれば…、百でも二百でも…」と連絡をしまくりました。南北1kmの粉浜商店街は夕方には心斎橋の大丸前ほどの混雑になります。この商店街に精肉店が5軒はあると思いますがその中でも「佐賀牛」の看板を大きく掲げているその肉屋さんは、最近、客足が疎らな気がします。「人が食べても大丈夫です!」ってあんなにテレビで大声で言ってても…。