秋田県の男鹿だったと思います。友達の竹中君の文通相手の娘(こ)の家に、図々しくもヒッチハイクの途中の1泊の宿として計画していました。金沢から2日間、車に乗り継ぎ、男鹿に到着。竹中もその娘(こ)と初めて会うし、当然 僕もみんなも…みんなが皆、モジモジだらけで、意気投合することが全く無く心づくしの夕飯の時間が迫る。いけない理由の最大のひとつ、言葉が通じない…「大阪弁」と「秋田弁」僕達、大阪者も、日頃、標準語を喋る機会がないので「しゃーから」を「せやから」に変換したり「ほんで」を「ほんで、ですね…」と、丁寧にしたり尊敬語の「しはります」を「してはります」程度の不明な大阪弁しか使えず秋田県側も出来る限りの訛りを押えているつもりは分かったけど…それでも、ほとんど相互理解不能だった。唯一、その文通相手の娘が通訳してくれるのが頼みだった。胃の痛い気持ちで、やっと夕飯を済ませ明日からのヒッチハイクの予定を聞かれている竹中君に、知らん顔でいた僕に「そごん、つんずさ、とっとくろ」と、お爺ちゃんが僕に向かって言ったのだ。『え、っと……』「ほれ、つんず、を、そごさ…」『は〜ぁ』とヘラ、ヘラ、ヘラ「くろうださん、ほら、そこの、つずさ」と通訳娘が、ちょっと分かり易く言ってくれたが《つずさ》が、どーにも分からない。「あーっ、地図ですね!」と耳が慣れてきたのか竹中君が、僕の手許にあった地図をお爺ちゃんに手渡したのだ。盆踊りのお囃子が聞こえる縁側。することもなく「盆踊りに行こう」となり文通娘と妹と僕達は歩き出した。道には裸電球すらなく、見上げれば、星だらけどこかの家のラジオからか聞こえてきた音楽千昌夫『星影のワルツ』日頃、演歌を馬鹿にしていた僕でしたがこんな田舎の村の中で聞くのが演歌なんだなぁと、しみじみ思った。木々に囲まれた真っ暗な道、懐中電灯だけが頼りだ。笛や太鼓の音が近づいてきた、その先にはぼんやりと大きな提灯を灯したよに見える、盆踊りの広場。大阪で見た盆踊りのように、光だらけでなく電気で増幅させた音もなく、太鼓からくる波動を感じる。村人の歓びを交わす質素なお祭り。見上げれば、あまりに多すぎて恐怖に近い畏怖を感じた、その星の数。
毎年 この季節になると京都で1泊2日をしていましたがここ4〜5年はやめています。と、云うのも…絶品の千枚漬けがホームメイドで出来てしまったから…。「日持ちしないのよね、保存料、無しだから…」シャキ、シャキ『へー、安全、安心やん…』バリボリ、バリボリ「塩と昆布だけの千枚漬けって、なんか… 物足りない気ぃも…」『あんな、鼻にツンとくる千枚漬けって、邪道やで…』バリボリ、バリボリ「漬物屋さんで聞いたら、かぶらをラッキョ酢で漬けてOK!や、ゆーて…」『ラッキョ!あら、喰えんわ…! 酢ぃーて、あんなん…』バリボリ、バリボリ「あら!あなた、全部、食べちゃったの!?」『え…!?』バリ・・・…「1枚、200円よ!」『えゝやん…』ボリ・・・京都の小旅行…息子も大学生になってしまい、名古屋の人となり「一澤帆布」も「信三郎帆布」と争そい、本流組と革新組へとどっちもどっちな方向へ進みだし終に、「一澤」は、この夏から店を閉じたまゝに…30年来の「一澤」ファンだったので、大変に哀しい思いです。そして、最大の目的の千枚漬けの買出しは自家製で完結。
毎年 この季節になると京都で1泊2日をしていましたがここ4〜5年はやめています。『村上重』の千枚漬けに初めて出逢ったのはNHKの朝の連続小説『京、ふたり』が放映されたとき(平成2年)ドラマの舞台となっている漬物店のモデルだと噂を聞きつけミーハーな気分で四条河原町の本店に訪問しました。『村上重』はその後、年々に客足が伸びていき紅葉シーズンから師走にかけて、店内はバーゲン会場みたいに混雑し開店早々に千枚漬けが売切れるほどですがその頃は、閑散として「ど〜ぞ、ご試食を…」と大いに勧められるほど…そしてその時、ついでに平安神宮の近くの『大安』本店へ錦市場のはずれの、千枚漬けの元祖の『大藤』のと玄人好みと言われる『西利』は、本店は遠かったので錦市場の店で買い求め、他に『川勝』と『打田』とゆう店のを見つけバブル的に買い込んでみました。結果! 『村上重』がワタクシの中に残りました。
毎年 この季節になると京都で1泊2日をしていました。阪急の四条河原町駅を降り立ち古いエレベーターの『東華菜館』で昼飯を済ませ南座の顔見世の看板を仰ぎ見ながら北に向かう知恩院前上ルの『一澤帆布店』で物色。白川沿いを散策し、『古川商店街』で昭和を懐かしむ東山通を東に折れ、蹴上げの『都ホテル』手前のラブホでファンタスティックなルーム写真のを2部屋を選ぶ閉鎖的なフロントに、その旨を告げると(えっ! 親子の3人連れで!?)と云う顔を横目で流しシャワーを浴びて、午睡を楽しむ。日が沈む頃にフロント集合し、南禅寺門前『順正』に向かう出された料理にほとんど手をつけず、ビール漬けになり、語り合う。翌日、適当に『哲学の道』とかを散策し京都小旅行の最大イベント!四条河原町の『村上重』で千枚漬けを購入す。
先週の土曜日、8度目の薬缶にチャレンジしました。(だめ、だめ…、も〜限界とちゃう…)とこゝ数回は上がったポジを見るのもうんざりで飽きだしてきた、今回の…首をグルグル廻したり、ぬるいお茶を飲んだり無駄に煙草に火を点けたり、カチャカチャと靴音を立てたりと、ソワソワしていた時に「そっか〜!」と閃きました。ポラで見る限り「うん、えゝやん!」と思いました。カメラマン役でチーフ・アシストの先輩スタッフと『猫』を卒業する直前の、セカンド役の後輩スタッフに「学んでもらえれば…」と企画立案したんですが実は、「学んでいる」のはワタクシだったりします。
『からっ風野郎』昭和35年1960年 主役 三島由紀夫9歳だったワタクシはこの映画を劇場で見ました。考えると、不思議です、何でこんな映画を見たのかが…。恐らく、3本立てで他のお目当てのを見たついでに、見てしまったんでしょう。『からっ風野郎』を初体験した時の思い。「なんでこんなヘンなおっちゃんが主人公やねんやろ…?見た目もかっこ悪いし、喋り方も下手糞やし、動きも派手すぎるし…」と、幼心に…。後年「ヘンなおっちゃん」があのノーベル賞候補の三島由紀夫と分かった時「そら、そーやろな」と思うのと同時に「何が三島を主演でOK出たのか?」と先日、「からっ風…」を一応、録画しておいてダーッて見て「あかんな…」と消去しようかと考えてた、深夜に、消し忘れのテレビから「からっ風…」のラストシーンが映っていて、ちょっと壮絶気味。翌日、正座して「からっ風…を最後までみよう」と決意して観ました。演技やら「論」は置いといて、生きてる・動いてる・喋ってる「三島由紀夫」を魅力的でガンバッてる人だと思いました。三島さんって「mo-ho-」説があったんですが、やられたんかな?一応…、若尾文子ファンとゆーことで、録画の「上書き禁止」に…。
「苦労田さ〜ん、まいど〜、今年も買ぉ〜て〜!」と、玄関の扉を開け、近所の酒屋のご主人が大声で入ってきた。手には店用の黄色いカゴを持って、ワインの瓶が一杯に詰まっている。「ワイン、そんなに飲んではれへんけど…、持ってきてん、ボジョレー」と、玄関の土間に並べ始める「これ、美味しかったわ…」「こっち、値段の割りに、まーまーやと思う…」「これ見て、ほら、瓶がプラスティックやねん…」「こっちのんわ、ちょっと渋いわ」「これ、手ごろな値ぇやと思うわ…、まー、イオンのキューパー(980円)には負けるけど…」「あんまり飲みはらへんから、ハーフボトルのん置いてこか?」「まー 縁起もんやしー」(えっ!縁起もん?)
前の日曜日、意を決して明石焼きにチャレンジしました。ホットプレートのたこ焼き用のヤツので焼きました。第1投目は失敗しました。その訳は「粉1に対して出汁3〜5倍の目安で薄める」と云うレシピが多い中で粉1に出汁2を入れて(こんなシャブシャブ状態で大丈夫か?!)と不安がよぎってそのままで、焼きはじめたら、ただのメリケン粉の団子になってしまいました。第2投目からは出汁を増量したので、理想に近い明石焼きを完成させました!で、いつものように…、喰い意地を張りまくってしまいカメラに収めるのん忘れてしまいました…。次の日曜日、又します! 阿呆のひとつ覚え…
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まるで絵のような
2009・11・18
明石焼きが兵庫県の明石市の発祥だと知ったのは、20数年前です。当時 オートバイのメーカーが自社スタジオを明石方面に建てたので年に3度、1ヶ月間くらい缶詰になっていました。カメラクルーは東京から来られていて、事前に調査済みだったのか「おいしい処」に非常に詳しかったのです。毎夜/\、「打上げ」状態で、街に繰り出してはグルメしていた中で「魚棚商店街」辺りの明石焼きの店に入りました。「ソースをちょこっと付けてから出汁に浸すのが「通」なんだよね…」と東京のカメラマンが得意気に言ったのを思い出します。芦屋に引っ越してから、阿倍野の明石焼き屋に行かなくなったワタクシは月に1度の明石詣でを繰り返し、明石周辺の店の中で発見した選りすぐりの店。魚棚商店街を西に出て、2〜30歩、北(駅)に歩くとある、地元御用達風の店。近頃では観光客が少しは並んでいますが、他の店に比べると無名な店で商店街の東はずれの「本家きむらや」の行列には比較にはならない、地元民店です。半熟玉子みたいなふわとろの生地に、軟らかくてぶつ切りの大蛸!妻と二人で四人前(60個)を喰ったことあります! ゲップ!ただ…、去年くらいに店を改装してしまい、明るく、ちょっと清潔になりついでに値上げをし、他の店と同じ様な値段になったのが残念…。それから…、出汁がいけてません… 三つ葉と甘酢生姜が無いのは我慢しますが、出汁だけを「おかわり」する気には全くなれません。こゝの生地で阿倍野の出汁で喰ったら最高だろうな…!
はじめて明石焼きを食べたのは40年前の阿倍野でした。にぎやかなあべの筋から1本路地に入るとちょっといかがわしいホテル街の中に古い瓦屋根の店がありました。狭い路地の割に店内は広く、10人くらいの職人さんが一斉に「らっしゃい!」と焼く手は休めずに声を張上げて迎えてくれました。職人さんは2本の菜箸を絶えず動かしては器用に丸く仕上げていきます。間口の広い角店で、右からも左からも引き戸をガラガラと鳴らして客が入るので、冬場はコートを着たままで座ります。客は、怪しげな男女の二人連れが多く次に、濃い化粧の、近くの飲み屋の女性達店の空気は、威勢の良い職人さんとは裏腹に、どこかヤザグレていましたね。こゝは、なんといっても「出汁」がうまかったです。刻んだ三つ葉と甘酢生姜を出汁に浮かべますが「おかわり」したいほど本当、うまかったです。20年ほど前に、自社ビルを建て、その1階に当世風の瀟洒な店に変貌し月に1〜2度は通っていたんですが、「鉄板モノ」を扱うようになり客層も変わってしまい、自然と足が遠のいてしまいました。今でも、こゝの明石焼きは大阪で一番だと思っています。
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近場で紅葉狩り
2009・11・14
物心ついた頃のこと箱膳を使った記憶があります。阿倍野区の自宅の長屋でだったか…母の実家の和歌山の新宮だったか…「ごちそうさまでした。」と言ってその箱の中に食器一式を仕舞いました。洗わないのです… 3日とか1週間とか…。「いただきます。」の前に箱膳の蓋を開け、お箸、茶碗、吸い物碗、小皿をセッティングし「よそって」もらいました。背中をピンと伸ばし、正座。食事中の会話は禁物、儀式のようでした。食事を終えると、お茶か白湯で茶碗らを洗浄して「ごちそうさまでした。」ご飯茶碗に口をつけて良いのは、その時だけです。ご飯を「掻き込む」のは無作法。昭和30年代、卓袱台の時代になっても各自の箸箱があり、洗わなかったですね…、確か。
・こげ茶の本革のん本革っていう言葉が好きです。戦後生まれは「本革」に弱いです。革の経年の風合いが、なんとも… 。向田邦子『無名仮名人名簿』の文庫本。・生成りの帆布のん帆布の手触りが好きです。年寄りなので、手の湿気が少なくなり滑り防止に最適です。『艶笑落語名演集・第3巻』文庫本。「8oz」のロゴ入りです、分かりますか?
って書きました。が…、とんでもない書き忘れをしていました。【大盛の大根おろし】を。和風スパに大根おろしは大正解ですので、お見知りおき。少し前、大根おろしを冷蔵庫の製氷皿で凍らしキューブ状にして、いつでもおろしをトライしたんですが…やはり、おろしたてが、一番なので止しました。今年 新ショウガが大量に出始めた頃にスライスしたんとおろしのヤツを冷凍保存しいまだに 使ぉてます。これは大正解です!
この表を見て…(最近 明太子のを、喰ってないなあ…)と妻にリクエストしました。・自家製いかの塩辛パスタ 150g・明太子パスタ 150g※香草やら、海苔をたっぷりのトッピング「うまい!うまい!」と笑顔だらけで、完食しました。最近はパスタを店で喰うって… ワタクシら、してません。上等なお店で、1人前80g程度、1千円単位ですもん… ね。
昭和57年 1977年 立冬「じゃー ポラ、いくから… スタジオさん、頼む…」標準語で、低くよく通る声が8っちーの方に向かってきた。『はい!』8っちーは天王寺にある貸しスタジオ『ムーンスター』のスタジオマンである。ここでのキャリアは半年をようやく越えた。今日の撮影は東京から来られたカメラマンでワカサキのオートバイの撮影でスタジオは1週間、押えられている。その初日の午前中だ。8っちーは調光機のハンドルをガラガラと回しはじめたら「違うだろ!!」と若い甲高い声が飛んできた。『えっ!』「換気だろお!」『えっ!カンキ?』アシスタントが飛んで来て「36サブロクの半分位のカポックある?」『カポック?』「スチロールだよ!」『は!?』「発泡スチロールだよ、ったく!」『ああー!ハッポチですね!』「犬じゃねーんだよ!なんだよ、ポチって…」スタジオの両扉を一杯に開けて、8っちーと東京のアシスタントが発泡スチロールで扇ぎだすと、スタジオにこもっていたタバコの煙が大きな雲のようにゆっくりと流れ出した。それとは反対に冬びた空気が8っちーの頬を撫でスタジオに入っていった。発泡スチロールを揺らしながら『あのー お名前、お聞きしていゝですかぁ?』「あゝ、鈴木」と言ったり切り「後、やっとけ!」とスタスタとスタジオの闇に消えていってしまった。5分くらい、人間換気扇をした8っちーは(この先、思いやられるなあ…)と思いながら、疲れた腕をグルグル回していると「早く、扉 閉めろ!」と鈴木さんはキーキー声で叫んだ。「じゃー しばらく禁煙だぜ…!」とカメラマンの穏やかな声が響いたので『はいー!』と大声で答えると「るっせーんだよ!スタジオ…」と鈴木さんの声が聞こえた。「じゃー、飯にしよーか…」とポラをテーブルに置きながらカメラマンが言った。8っちーはメニューの束を渡しながら(『梅庵』のかつ丼が食べたいな…)と思っていた。「丼と蕎麦が良いね…、スタジオさん、どこか旨い処、ない?」『はい、大橋さん、梅庵、ゆーとこは丼モンがうまいっす!』と8っちーが答えるとカメラマンの大橋さんは自分の名前を 突然 呼ばれてたので、一瞬「?」と動揺が見えた。少し前、ディレクターが呼んでいる「大橋さん」名前を8っちーは脳に収めアシスタントの鈴木さんの「攻略」は後回しにし、大橋さんに「訴える」作戦に変更した。「じゃー、そこで、いいよ、頼もっかぁ」と頭をかきながら大橋さんは言った。「スタジオ!メモ紙!」と女のような声の鈴木さんは8っちーを睨んだ。皆の注文を聞いて回っていた鈴木さんは最後に8っちーの方に歩いてきたので(かつ丼と梅干うどん…)と心に念じていたら、「これ!」とメモを押し付けて「電話!」と言い残して背を向けた。ムーンスターの控え室「8っちーなあ、東京のスタジオマンって、お客さんとメシ喰うのん禁止やねんでー 知らんかった?」と沢尻先輩が言った。『え!そーなんですか?』と8っちーはカレーパンを喉に詰まらせ紙パックの牛乳を流し込んだ。なんだか妙に恥ずかしい気持ちに陥った。午後から 8っちーは頑張って、頑張って、頑張った。夜の9時に「とりあえずの、お疲れ!」となり8っちーは後片付けをはじめていたら「きみー、8っちーくんだっけ? あのさー、ここら辺で 河豚のうまい店 知らない?」と大橋さんが低めの声で近寄ってきた。8っちーはビックリした。大橋さんが名前を覚えてくれたのだ!思わず、慌てた声で『あ、あります! 通天閣の下らへんに『づぼらや』ゆーのんがあります!』「へ… 近いの?」『タクシーでワン・メーターくらいで行けると思います』「じゃー案内してよ… ぼくの車で行くからさー 大阪、分かんないだよ…」『はい』「喰わせるしー」『は、はい!』「鈴木って、酔うといつも、こーなんだよね…あした、使いモンになんないと思うから、8っちーくん、頼むな…」と大橋さんベンツのワゴン車の荷台に鈴木さんはベロベロに酔い、横たわっている。『づぼらや』でトイレに行ったまま、なかなか帰ってこないので8っちーが見に行くと、便器を抱えて寝ていた鈴木さんだった。「シートが汚れるから、荷台で良いよ」と鈴木さんを担いでいる8っちーに大橋さんは言ったので、仕方なく荷台に寝かせ、当て布用の毛布を掛けた。「るせー!大橋のバ〜カ、フーン、ムニャムニャ……」ムーンスターの前で車は止まり「ほんと、あす、頼むな…」と軽く手を上げて、車は発進していった。夜風が強く吹いて、一瞬 ブルっと震えた、が心地いい酔いでポカポカと暖かい気分の、性別年齢不詳の8っちーだった。
これっ引っ張り出してきました!ポリタンです…と、違ってステンレスのタンク つまり、ステタンです。食洗機から排出される60℃近い温水をこのタンクに溜めて炬燵としての熱源にします。寝る時は、布団の中に引っ張り込み アンカです。ポッカ… ポカ!スーパー・エコライフ やってます!
最近、TVドラマを見なくなりました。かろうじて、NHKの「朝のん」は妻が見ているので横目で流していますが、ダメです… イケません…。15年前のドラマ『古畑任三郎』シリーズ再放送のを録画して見ていますが、よく出来ています。上の写真は第7話『殺人リハーサル』のカットです。えっと…、これ…映画の撮影所を舞台にした殺人事件なんですが…ワタクシ、喰入りました…!あの、懐かしい、タングステンのライトが…ね! ほら!10kwのスポットライトを任三郎が触ってます!懐かしいー で、す、ね…。昔 これを担いで走り回っていました… ワタクシ
阪神大震災後に買った、あの冷蔵庫。近所の電気屋のおっちゃんが運んでくれました。「これ、良いですよ!」と店先でおすゝめられ「チルド室ゆーのがあって」と店内で冊子を見せられた。いつも「ブーン」と台所で囁いて触ると微熱気味だった、あの冷蔵庫。
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来客のためにお香を
2009・11・2