■ 文通ブーム昭和30年代後半、1960年くらいから、文通ブームがありました。もしや…、ワタクシの周りだけの小中学生のブームだったかも…小学館の「小学○年生」の巻末の『みんなの広場』みたいなページに…『切手に興味のある人』『スポーツが得意な人』『こまどり姉妹のファンの人』『都会に住んでる人』ワタクシも『図工が好きな人(大阪・小5・M.K)』で掲載されたこと有り!■ 蚊帳この頃、大阪市内でも、寝る時には「蚊帳」を吊る家が多かったです。今では 考えられないですね。エアコンが無く、風を通すためにアチコチの戸が開けられ、それに今以上に「蚊」が多くって、夕方の路上の電灯に「蚊柱」が立ったほどでした。ちょうど、この頃以降から「扇風機」が低価格化し普及しはじめようやく、戸を閉めて寝るようになりました。■ 省線 しょうせんたまに、間違えて「国鉄」と言うときがあります。若い人達から「えっ?!」ってゆーう反応があって、ようやく気付きます。そんな言葉が、この戦後の「省線」です。「日本国有鉄道」「国鉄」の前は、今の「運輸省」の前身の「鉄道省」が運営&管轄していたのが「省線」と言ってたようです。この頃 大人たちが「省線」と言うのを聞いて「国鉄やん!」と笑っていましたが、「JR」が中々 脳に出てこない 今日この頃です。■ 昭和の「川」あの頃の「川」はひどいものでした……ゴミ捨て場でしたね。水屋・フトンなどを放り投げるシーンをよく目撃しました。昭和40年代になり、日本が「金持ち」に向かう頃にはタンス・冷蔵庫・自転車やベットのマットレスと大型化。通称「ひっかけ橋」の「戎橋」は臭くて&臭くて、鼻をつまんで早足通過でした。料理屋とかの下水は垂れ流しだったので「くっさー!」でした。映画「三丁目の夕日」は匂いの表現はされてませんでしたが…町家の便所も「汲取り式」ですから… あの頃って。■ 自宅電話いわゆる「黒電話」の普及は、昭和40年代です。この話の頃は「商売屋」や「金持ち」しか所有してませんでした。で、ご近所が借りにくるのが前提なので、電話の設置場所は玄関先のゲタ箱の上が普通、お金持ちは「電話台(棚)」の上でした。町角には「赤」の公衆電話がありましたが、「市内専用」で「市外通話」は 近所に借りるのが一般的でした。また、正式書類っぽい「緊急(電話)連絡先」欄に、貸してくれる家の「電話番号」を平気で書いてました。■ 停電この頃、「停電」はよくありましたね…。戦後の昭和20年代は 1日に1〜3 度もフツーで「また、かいなぁ…」でおしまい今なら、長時間の停電は「訴訟もん」でしょうね…「PCのデーターが飛ぶ!」 とか ね…。
晩酌をしている勝男、時計を見上げると9時過ぎだった。「まだ 手紙 読んでんのかあ…?」と五分刈り頭をポリポリを掻く、父の勝男。
「そーですねん…」と 次の間の蚊帳の方を哀しそうに見た、母の妙子。
萌黄色の蚊帳の中でチエ子は手紙を握りしめ、ジーっと目を落としたままだ。
その手紙はチエ子が文通している、熊本県の山深くに暮らしている冨子さんからのだった。
「ホタル、見たい…!」とチエ子は突然、言い出したのだ。「戦前でしたら、省線にちょっと乗っただけで大阪でもホタル 見えましたのにねぇ…」
「ほんまや… 今、ここらの川なんか ドブ川やもんなー 臭ぉーて、臭ぉーて」
「『水に流す』いいますけど、色んなもん 捨てて一杯ですもんねぇ…」
「この前なんか、店に来た客 ゆーとったけど 生まれた子猫、何匹も、川に捨てた、ゆーて」
「へー 残酷な話ですね…」
小声で「夜、遅ぉに、すんまへんなぁ……」と顔を出したのは町会長の藤原のおばちゃんだった。
大きなダンボール箱を、そっと座敷に差し出した。
「なんですの、これ…?」と妙子もつられて小声で聞くと
「ホタルですねん」藤原のおばちゃんは、指を口に立て「シー」の真似をしながら
「きょう 主人が京の貴船に行ってゝ、帰ってきましてなぁ
『これ、チエ子ちゃんに届けたりー』いーまして…」とチエ子の方をアゴでしゃくりながら
「おととい お宅んとこの勝男さんが 奈良に電話してんのん 聞ぃてしまいましてなー」チエ子の家には電話が無く、勝男が藤原さんの電話を借りたのが、おとといだった。
勝男の実家は奈良の法隆寺の寺前で土産屋を営んでいて「ホタル、おらんか?」と
電話で聞いたのであった。 その奈良の答えが「ここらも、アカンわー」だった。「うちの主人が きのうから貴船に川釣りに行ってきましてなー
『ホタル 一杯やったから 捕ってきてん』と、ついさっき… ほんで、チエ子ちゃんに…」
勝男と妙子がひそひそ話をはじめた。そして、勝男はゆっくりと玄関口の上にあるブレーカーのフタを開けた。「あっ!停電やわ!」と妙子が小声で叫んだ。
「手紙、読まれへんし…」とチエ子も声を上げた。
「なに? これー!」と叫んだチエ子
「うっそー! これー ホタルー!?」嬉々とした声が、暗闇に上がった。
「そーやねん、ホタルやねん… チエ子ちゃん、良かったねー」「ほんまやー 夢みたいー!」
「おれにも 見せてくれー!」と玄関から勝男の声が上がった。
闇の中を探り探り来た勝男が「ほんまや! 点滅しながら、スーって飛んどる…!」
「おとーさん! 大きな声したら 逃げるやん」
「あほやねー 蚊帳の中ですよー ふ、ふ、ふっ」
しばらく… 三人はじっと見つめて、沈黙が続いた。「チエ子…、ネズミが6匹?」と勝男が静かに言った。
「ん…、夢中。」チエ子が答えた。
一等賞 太田誠士くんシュールな「出遭い」しましたね… 撮りましたね… 題名をヒネりましたね。こんな写真も「有り!」です 「大」有りです。 こんな発見の「目」を忘れないで。せやけど… 後ピンちゃうかーー?
二等賞 馬場幸未さんこれも題名勝ちです。『昭和マヌカンの目線』なんて題名だったら、凡作だし… ね、色調は自然光かも知れませんが、琥珀調で良い感じです。三等賞・西田恵さん 題名が好きです。・神田靖英くん この空間の切り方が、好きです。
こゝに写るは、我家の客間のワタクシであります。撮影者は本日よりCタイプに昇格したT君であります。
昨夜 「昇格祝い」の宴を催した折に
と、なりリコーGRを玩具にしたのであります。
なんて、遊んでたら……
上の写真ができました。ペンジュラム的効果もでたね。光の輪っかは、補助照明の和蝋燭の灯火です
「冷蔵庫、空っぽ…」「嗚呼…… 」「朝ごはん、なんにしょ?」と、妻。
『恋は紅いバラ』この曲は昭和40年、1965年に発売された加山雄三さんの実質的なデビュー曲です。ワタクシが高校1生での話は、昭和42年、1967年の話なので当時、この曲はすでに「過去の歌」になっていました。同時期にデビューした「ビートルズ」と同様、最初の頃は「アイドル」扱いで女子供が「キャーキャー」と騒ぎ立て、その2年後の この頃は「ビートルズ」はステージ活動を中止し、レコーディング・アーティストへ加山雄三さんは映画「若大将シリーズ」で、俳優業に移行し始めた頃だと思います。だから、ファンでなかった高1のワタクシの中では加山雄三さんのは「過去の歌謡曲」のイメージがあり、竹中君にLPを見せられたとき、落胆したのです。当時のワタクシの「可処分所得」では「若大将シリーズ」はおろか大好きだった「007シリーズ」すら行けなかったサイフの時代です。
オーディオ環境昭和40年代の初めは「電蓄」という言葉が まだ 残っている時代でした。「電蓄」は木製家具に納められ、中型冷蔵庫くらいの大きさで次いで「卓上電蓄」「ポータブル電蓄」が出はじめました。この「電蓄」は「寅さん」のトランク位の大きさだったと思います。これは、ちょっと中流家庭が所有。そして、一般家庭に普及しだした「ポータブル・レコード・プレーヤー」は「広辞苑」の二まわりほど大きくしたような物で、我が家ではそれを「月賦」で買ったのをおぼえています。だから、竹中君の「オーディオセット」などは裕福な家庭でしか持てない大変な代物でした。日本中の「家」には「風呂」がなくって、「銭湯」「風呂屋」に行ってたくらいで音楽を良い環境でボリュームを上げて聴く、なんてのは、夢のまた夢 な、時代。当時のワタクシの「可処分所得」では加山雄三さんのLPはおろかスパイダースのシングル盤「夕陽が泣いている」を決死で買ったサイフの時代です。
「苦労田、うちで音楽、聴けへんか?」『おゝ… えゝなあ!』「好きなレコード、持って来いよ」『オッケー』高校1年の中間テストが終了し、テスト休みに入った。梅雨のはじまりの ちょうど いま時分の頃のこと…友だちの竹中君はクラス委員長、ワタクシは「副」だった。竹中君の家は長居競技場の近くの一軒家、自営業で多少の裕福家庭。ワタクシの家は四軒長屋で貧乏で、「音」の環境は「ポータブル・レコード・プレーヤー」LPレコードを乗せるとプレーヤーが隠れてしまうという、お粗末なモノだった。竹中君のは「オーディオ・セット」で右と左のスピーカーがある、部屋一杯のオーディオ機材夢の様な「音」が響いてた。
「苦労田、なんか、聴くかぁ?」ワタクシ ぎっしり詰まったレコード棚に目を見張りながら『おー! ベートーベンの「運命」、あの♪ジャジャジャジャ〜〜ン♪聴かしてー』と 答え 地響きするような低音と どこまでも続く高音を体感した。次から次へと、気になった曲の「さわり」だけを聴き続けた。ふと、竹中君が「苦労田、これ 聴いてみてみー…?」と、針を落としたのが ベートーベンの「月光」。それはそれは 静かに切なく、幻想的に哀しく (キレイや!)「ええなあ!」「これー 苦労田、気に入ると思ぉてゝん…」と少しニコニコ自慢顔の竹中君だった。夕方近く 彼は 唐突に「苦労田、ビートルズのファンやろ?」『ん、そうや…』「これ、聴いてみー」と棚から引っ張り出したのが「加山雄三」のLP。( なんや、歌謡曲か… )「『恋は紅いバラ』やー…」と言って、一曲目の針を落す場所を探しいる竹中君。(ん?)知っている『恋は紅いバラ』と違う…『これ… 英語で歌とてるやん!?』「そーやねん! エレキでやってるヤツやねん!」聞き知った、男女のコーラスが聞こえ、ストリングスでゆったり入るのとは違いサイド・ギターが「シャカシャカ」とリズムを刻んで、GS風になっている。他のもエレキインストと英語の歌詞で (加山雄三って「洋曲」もやんねや…!)『青い星屑』なんかも『スリー・ブルー・スターズ』って題名になって歌無し、エレキ・サウンドのみや!その頃の高校男子の「考え」は‘加山雄三は女が聞くもの’だったので竹中君もワタクシに、言い出しにくかったのだろうとそのとき、思った。それ以降 ワタクシは「隠れ」加山雄三のファンになってしまった。あの日、梅雨の晴れ間の、竹中君のステレオから。
「ご飯に『ゆかり』をかけたいんだけど…」 息子「そぉ じゃー きょう 買ってくるから」 妻と、ゆー会話を聞いていて(おやっ?)『「ゆかり」ってなんやの?「伊東ゆかり」か「上原」かー?』って 聞いたら、二人して異星人を見るような顔で「知らんの?」「うっそ?!」と返ってきた。なにやら…給食にも出てくる「定番のふりかけ」だと、そのとき判明。
ワタクシの「ふりかけ」人生は…そもそも『丸美屋』の・チーズとハムの風味の「チズハム」と・すき焼き風味の「すきやき」と・エイトマンのシールが楽しみだった「のりたま」・そして、爺さん&婆さん御用達、器が立派な「錦松梅きんしょうばい」そんなんしか知らなかったのでその晩、『ゆかり』を試してみましたら…
こんなシブいもん、小学生に喰わすなんて 渋々…って 思った記憶があります。
まー そんな こんなできょうの話ですが…上の写真は「怪しい物体」でしょ・・・… ?これは去年の梅干を漬けて余った「紫蘇しそ」です。
ワタクシ ちょっと ボー としていて『ん??? どーしたん?!』と妻に聞きましたら「このカットじゃーなくって、さっきの…」と、TVの画面を指差しました。ハゲめのおいさんが話しているアップの画面でした。昨夜のドキュメント番組を録画したヤツを再生中だったのでプレーバックしたら「ほら!」ってゆーので停止したら、上の画面でした。
「梅が無い……」と先週 妻が大騒ぎしています。ネットでアチコチ探していたが「梅… 売切れ…」で…「有った!!」けど「5kgのしか…」毎年 2kgの梅干を作っている 我家ですので。『ほな、ぼく、「梅酒」作るわ…』と宣言したもの の梅酒ってメッチャ甘ったるくて、好きじゃーないんだよなあ。で、ネット検索した ら酒なんか、何でもえゝし…甘さ加減も自分勝手でえゝってーんで「ジン」の梅酒に決定 「梅ジン」ですね…広口ガラス容器を買わねば… と 悩んでいたら思い出しました… それっぽいのが家に有るのを。焼酎のサーバー、五升用がある!
700ml入りの「ジン」で、何本必要なのか?
3カ月後が楽しみだ!!
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絵になるな〜
2009・6・13
アルコール度数が68%仏蘭西ペルノ社の「アブサン」です。前出(6月2日)の「アブサン」のは55%でした、のでペルノ・アブサンは悪魔的です…、がスキッとした爽やかさを感じました…ので、この夏は3倍薄めの炭酸割りで常飲したいと思ふ けふ この頃 です。はじめて「アブサン」を口にしたとき、思いました。( なんかに… 似ている… )昔の「歯磨き粉」の香り…と思ったりしましたが…そー 数年前 東京・浅草の「神谷バー」で 面白がって飲んだ「電気ブラン」に近いかな… と気付きました。度数は30%でした。浪漫ティクに「電気ブラン」を口をつけたとき『養命酒みたいやな…』と ちょっと敬遠気味に置いておき本チャンの「生中」をガンガン飲んでました。でも、周りの白髪の紳士&淑女たちは、目を細めたながら大切そうにチューっと飲んでいた光景を思い出します。「電気ブラン」の「ブラン」は「ブランデー」を略して「ブラン」になり「電気」は、明治時代の最新文明モノを意味する、接頭語みたいな言葉です。昔、「電気ミシン」「電気洗濯機」「電気トースター」とあえて「電気」を付けたのも、昭和時代も「電気」に憧れたように。ある時期「文化」もありましたね「文化鍋」「文化住宅」「文化包丁」と…。少し前に「E-」が流行りましたね…、今現在なら「i-」ですか?「電気ブラン」で思い出したのが、宮沢賢治の「電気ブドウ酒」です。ワタクシ思うに… 宮沢賢治はケッコー「山師」じゃーないか… と。「清貧の農民詩人」な印象がありますが…実は東京へはしょっちゅう出掛けては、都会の空気を吸い人造宝石を作ると云っては、豪農な父に資金カンパを頼んだり焼酎をベースに、黒豆の煮汁で赤ワイン色に似せた「電気葡萄酒」のレシピを考案したり… と そんな人なんですよね。でも… そんな「電気葡萄酒」を一度飲んでみたいですねきっと 大正時代の薫りがすると思うんですよ「電気ブラン」や「アブサン」みたいに…。
■「ストレンジャー」/ビリー・ジョエル昭和52年 1977年当時、有線放送の「リクエスト/洋楽」を一日中、流しっぱなしにしていると「ストレンジャー」が2時間置きくらいに聞こえてきた程のヒット曲でした。次の「オネスティ」も大ヒットさせて、次いで「プレッシャー」は‘そこそこ’のヒットでした… が…この頃から ワタクシの周りで「プレッシャー」と云う言葉が日本語化したと思います。それ以前は「ストレス」「緊張する」と云う言葉とは また違う次元の言葉…「プレッシャー」に替わったと思います。
■Gパン今は「ジーンズ」ですが、ワタクシ… 恥ずかしくてそんな言葉は使えません…。いまだに「Gパン」派です。そうそう… 「パンツウ」て言う言葉、それも恥ずかしくて…「スラックス」であり「ズボン」であり、「パンツ」は「下着」でしかない。ま〜 ともかく…昭和45年 1970年 大阪万博くらいから「Gパン」が流行。それ以前は米軍放出品店の暗い隅に中古の「Gパン」が置いてあったり…。「万博」以降ぼちぼちと「大西衣料」か「アメリカ衣料」か「三信衣料」みたいな軍手・軍足・作業服を売っていた店の棚に置かれるようになりました。そうそう…「Gパン」以前は「綿パン」で、お洒落な人は「コッパン」と言ってました。ワタクシ あれ以降Gパンを履いてませんし… 持ってません。
と、スタイリストお姐えさんがスタジオの扉を閉めた。スタジオは静まりかえって、8っちー独りになった。有線放送からビリー・ジョエルの『ストレンジャー』が流れたピアノソロに続き 口笛が聞こえてきた(嗚呼 切ないなあ…)と つぶやきそうになった…8っちーは肩を落とし、大型調光器の上に置いてある有線放送のチューナーのボリュームを一杯に上げ、スタジオを震わせた。8っちーは貸しスタジオ「ムーンスター」のスタジオマンである。きょうはモデル撮影だった、さっきまで14〜5名の人で騒々しかった。
と、8っちーは元気良く挨拶をした、今朝だった…きょうのお客様は川原カメラマンさんで「君、よー 動くねー!」といつも指名してくださっているので、8っちーは朝からウキウキしていた。「そのGパンかっこえゝやん!」『そうですか?!』「‘EDWIN’やん」『はい!スーパースリムです!』「新品?」『はい きのう 寺田町の三信衣料で買いました』そんな会話から始まり(きょうはうまくいくぞ!)と、8っちーは思った。「バック生きでモデルやから…このバック紙でいくわ」と立て掛けているバック紙の中から、ピンク系の一本を指差した、川原カメラマン。ピンとキレイに垂らされ敷かれた、ピンクのバック紙。
と、突然 川原カメラマンが素っ頓狂な声を上げた。「君ぃーー 困るなあ! Gパンで膝ついたんやろ!」『えっ!』(それは… さっき… 川原さんが モデル位置を決める時にクルっとターンの真似をしはったときに、紺色の靴下で…… )「スタジオマンやったら 気ぃ付けなあ! ほんまにー!」(直ぐに 砂消しゴムで消そうと、思っていたのに…)「それ、切ってやー! で そのバック紙代 払えへんからなあ…!」『はあ!分かりましたっ!』「なに 偉そうにゆーてんねん!」『いえ… すいません……』「Gパン履くねんやったら、新品、違ぉて、色落ちせーへんヤツにしーやー!」『はい… すいません…』
スタッフは思ったより早い時間の終了を喜び「打ち上げ!打ち上げ!」と騒いでいた。川原カメラマンも 何も無かったように「また 頼むなー」と出た。
有線のスイッチを切り、8っちーは口笛を吹いた、スタジオに淋しく響いた…。そして、今後絶対にGパンを履くのを止める決意をした…。とても/\ センチな気分で性別不明の8っちーであった。
マル秘、もしくは… 社外秘の毎日発行の新聞それが… 【8oz新聞】です。メンバー全員にFAXもしくはPCで配信しています。色々な「きょうのネタ」を拾い上げ&ひねり出してはメンバーにセッセと配っております。
きのうの「新聞」に下のクイズを出されていてワタクシの頭を悩ませました。@はなんとなく(考えんとこぉ…!)としたときに浮かんできました、がっAは難解です… ワザとボーっとしてもダメでした。本来の出典は… ま〜 あるんですが…8oz的にはCタイプ久高君らしい…。
・「一本の筆で充分」 と 思ってました… ら・「どんな筆でもOK!!」 だったんですね……
「弘法筆を選ばず」 と 書くと「弘法筆」と筆の名称みたいでヘンだから「弘法 筆」「弘法、筆」「弘法は筆」…と、書くべきじゃーないのかなあと… つまらないことを考えている
「アブサン」です。「緑の妖精」「緑の魔女」「緑の詩神」「幻緑の酒」…と、色々な枕詞を冠にした「アブサン」です。19世紀の芸術家に愛された酒「アブサン」『アブサンを飲む女』とゆう題名の絵はドガやピカソそしてモネが描いていますし『アブサンを飲む男』はマネとオリヴァが描いています。「アブサン」が登場する文学作品も多数。そんな謎多き「アブサン」を入手し、いつもの様に「&トニック」にし、恐る/\ 口にふくみました…ら…予備知識の通り…歯磨き粉の風味が プ〜ン〜
映画『猫と庄造と二人のをんな』原作は谷崎潤一郎さんで昭和31年に上映された映画です。なかなか当時の風俗・風物が見られます。芦屋と云えば播州弁神戸弁ですが、この映画では大阪弁なのでちょっと違和感ありますが…よー出来てゝ、懐かしい気持ち一杯です。「オープンカーのオート三輪や…」「男の夏はパナマ帽や、やっぱり…!」「あれ… 芦有道路とちゃう?」
「この商店街って 三八さんぱちかぁ? んゝ 打出かな…?」「松浜町やん…!」
「『鰯や、いわし〜 獲れ、とれのいわし 手々噛む鰯やで』の行商の売り言葉、聞こえたぞっ!」