先週の土曜日の夜定例の8ozのフロント・ミーティングがありました。細野ビルヂング近くの焼き鳥屋さんの3階 座敷で …いつもなら 家族連れ もしくは 勤め帰りの 客が数組いるのですが天気予報は関西は大雨 なおかつ すでに 降り始めていたからか客は 8ozのメンバー6名の貸切状態でした。酔いも ほどほどになって「夏の○○○さんとこのスタッフは大丈夫なん?」とワタクシ 質問した ら …メンバー全員が「フリーズ」している( なに この空気! どー したん??? ) と 思った 一瞬 ( あゝ やっちゃった… ! ) と 反省の嵐が脳内に吹く8oz外で お客様の固有名は口外禁止条約に 違反した!
いつもやったら…そんなことがあると ワタクシが 「アホ〜! 壁に耳あり ジョージにメアリー やろがっ!」って 言う側やのにお客さんが いないからって ワタクシ 安心してました… ほんと 総理ィー
カレーの支度をしている妙子 表がガヤガヤと騒がしいので 台所の窓から顔を出すとこんな長屋の狭い路地に 黒塗りの大型車が侵入しようとしている。2台の自転車がすれ違うのもやっとのほどなのに… と 思って見ているとチエ子が目の前を横切って ガラガラと玄関の開く音がした。「おかーさん 大変 や 大変!」 と 台所に顔を出す。「どー したん?!」 思わず妙子も大声になる「おとーさんが 車で 帰ってきた!」「えゝっ!! 路地に入ってきた あの車?」バフンッ!という鉄板の厚い高級車らしいドアの音運転席から どこかの喜劇役者に似たような男が小走りで 後ろの席に向かう木製リンゴ箱のゴミ箱に ドアを当てないように注意深く取っ手を引くと おでこに包帯を巻いた勝男が出てきた。続いて 初老の紳士がゆっくりと出てきた。
四畳半の座敷に五人が車座になって座っている。茶托にゆったりと椀を置きながら しゃべり出した初老の紳士の話は こうであった。「天王寺で 業界の寄合があり どうしても「釜ヶ崎」を通らなくてはならずこのオッチョコチョイの運転手は「当たり屋」を恐がって緊張し「新今宮駅」を過ぎた辺りで 頂点に達し「山王」の交差点で ジャンジャン横丁から出てこられたお宅のご主人の自転車に気付き 急ブレーキ踏んだら驚いたご主人は自転車を転倒させてしまい おでこにケガをなされた。それを目撃した 近くの巡査が ニコヨン日雇い労働者の当たり屋と勘違いし現場で警棒を振りながら ぞんざいな尋問をご主人にしているので私も説明しようと ふと ご主人を見たらいつもお世話になってる お店の板さんの「勝ちゃん」じゃーありませんか…」 と 静かに語った。前屈みに小さく座っている運転手は初老が話す呼吸に合わせて うなづいている。「そー そー」と相槌を打っていた勝男が 「ほんまやで〜 出掛ける前に足に包帯していったやんあれが あの警察に「偽装のケガの証拠じゃ!」 って 言ぃーよってからに えらい わやゝったでぇ…」「あなたが『オーバーに巻いとってや!』って言いはったからでしょう…」
「しかし… 勝ちゃんは店でも そーやけど 巡査にも 威勢よー喋っはりてましたなぁ…」「とんでもないです 社長はんの口添え無かったら ブタ箱いきでした ほんま アリが十匹お猿五匹でしたわー」「勝ちゃん こっちこそ 紺屋の地震 なことでした… 」「ほんなら 一杯 やりまひょか ゆっくりと?」「これは これは またまた 紺屋の地震で… 奥様 よろしいでしょうか…?」「 どー ぞ どー ぞ 」 台所に向かい ビールを出している妙子チエ子がついて来て 小声で「アリが十匹…の あれは 『有難う御座る』やんなぁー」と話す「ほんなら 『こんやのじしん』ってなんやの?」「さぁ… お母さんも 知らんわ… 後で お父さんに聞いてみぃ 」
♪ 君のは ○○がネジを巻く 竜頭の見えない自動巻き セイコー・スポーツ・マチック ♪この歌の「○○」の部分が 記憶の中では「カタ」だったんですが‘肩’ならコピー的に違和感がありますよね… ‘腕’ならまだしも…そ〜か 記憶違いかもな…まー とにかく‘スポーツ・マチック・5’は 1970年3月までは腕にしていました。高校を卒業して社会人になる前の春休みに 映画『イージーライダー』を観て冒頭のシーン これから「自由」を求めて旅立つライダーが「腕時計を捨てる」という象徴的な場面に 影響され「会社」に入っても「自由さ」を無くさないでおこう と 腕時計をはずし 今に至ります。たんじゅん!主題歌 ステッペンウルフの 《Born To Be Wild》 を♪ オ〜 チュピー ワー ア〜ア〜 ♪ と 聞き違えて当時 梅田のナンパロック喫茶「キューピット」で 大声出して歌ってました。
あゝ途中 一度だけ 腕時計をしてました…。この仕事をやりだした当時の1年くらいの間ハミルトン社のアメリカ軍仕様の婦人物レディースで直径が2cmくらいの小型やった…あれは カッコえー 時計やったのになぁ…何処 いってんやろ?酔ぉーて 誰かに 遣ったんかなぁ…?
‘中学生になったら腕時計!’ も ありました 万年筆と同様《 SEIKO スポーツ・マチック・ファイブ 》この名前を思い出した時 懐かしくて 涙が出そうになりました… 。初めて買った腕時計です。
CMソングまで 思い出しました…♪ 君のは ○○がネジを巻く 竜頭の見えない自動巻き セイコー・スポーツ・マチック♪蛇口から ほとばしる水 顔を洗う男が 腕時計をしたまゝで ジャブジャブ 水しぶきをあげているそんな ショットも あったと思います。 「生活防水」を謳うために 。
中学校の休み時間の教室では 何人かの男子生徒が 耳の辺りで 腕を振っている 光景 よく見ました…(何をしているのか?) それは 時計のゼンマイを巻いているのです。その「自動巻き」と云うのは 「腕を振る」と 巻けるタイプだったんです。だから 寝るときなんかは 枕元に置いといて 心配だから 寝る前と起きて直ぐに 時計を振ってました。静に「ジーコ・ジーコ」みたいな感じの音がしてました。
裏ブタには保護用のブルーのシールが貼られていて それは/\で きれーでした ね。春に買って 夏の盛りには そのシールが 段々と剥がれていって きたなくなり「えい!やーっ」と 全部めくったら きれーな冷たいクローム金属だったんです が中三の兄貴の時計は 扱い方が丁寧だったのかいつまでもいつまでも ブルーのシールが 買ったまゝの状態なのが 羨ましかったのを 覚えています。
バブル期 ご他聞に漏れず 「モンブラン」だとか「ペリカン」だとかを嬉しがって持っていた時代がありました。 そん時に気付いたことが…
・「よっしゃ〜!!」と云うような「こゝいち!!」契約があり「代取」代表取締役直筆のサインが必要だった 折にえゝカッコーして 万年筆を取り出して キャプをクリクリしていたら…「申し訳ございませんが…」と言われたことがありました。今の契約書はカーボン・コピーが普通なので 万年筆だと筆圧が弱くなり下の用紙にコピーされない で 「これ 使ってください…」と先方の会社のロゴ入りのチープなボールペンを手渡され メゲたことあり。
・「書くもん 貸してください…」と言う 若い人がいてえゝカッコーして 万年筆を取り出して 『これっ…』って渡して( 良いのん持ってはりますね…! )って ゆー言葉を期待してたら万年筆のお尻部分を押してみたり… クリップ金具をパチンパチンしていてしまいに 「これ どーやったら書けるんですか…?」 とネジネジ式スクリュー式を知らない人が多かったのを発見したことあり。
・そんな若い人が 開けたキャップを 机の上に コロッと 置きペンの軸だけで書いていたので 『バランス上 キャップはペンのお尻に』と言うと頭を振りながら「さっきの方が バランス 良かったのになぁ…」と言われたことあり。
・そんな若い人が ペン先を紙に落とすのを見て 絶句!ペン先を反対にして書いている…!『それっ!あかん!違うっ!』って 持ち方を訂正すると「なんかフニャフニャにてヘンですよ…! さっきの方がカリカリして書きやすかったのになぁ…」って 言われたことあり。
・そんな若い人が 書き終えたのか 万年筆を机に置いたまゝ 放置し違う用事をしているのを見て (早よ キャップしてーなぁー お願い…!) と心でイジイジしたことあり。
・ついでに… そんな若い人に「CROSSのボールペン」を お貸した時にあの「繰り出し方式」が分からず やっぱし お尻を押したりクリップ金具をペチペチしているのを 見たことあり。・ついでに… 反対に 「キャップレス」万年筆を 大人の人にお貸しするとクリクリと繰り出して 分解しちゃったりする人も 多し!
と まー 色々と書きなぐりました がそんな 「赤子のしょんべん」2月26日大阪の洒落言葉参照みたいな筆記用具時代と共に廃れるのは 必至 でしょう か ね… 。
きのうの『サザエさん』を見ていて 思ったことです。第二話 「お父さんの万年筆」 の話磯野波平がカツオに「中学生になったら万年筆を買ってやろう!」と 云う提案から はじまる事件カツオはシャーボ多機能ボールペンが「良いな」と 言って 波平の(逆鱗に触れる)という展開をしていくんですが‘中学生になったら万年筆!’って‘定番’だったな… と 思い出しました。
昭和39年の春 中学の入学式の前夜くらいに近くの「万年筆屋」さんに 母に連れられていきました。思えば 万年筆だけの専門店があったのも「昭和」ですね…母親が「一緒に選んだる」と言って 出掛けたんですがワタクシの「心」には決めた銘柄がありました それは当時のテレビのコマーシャルでバンバン宣伝していた新製品セーラー万年筆社の「ミニ」に決めていました。それは Yシャツの胸ポケットに入るショートサイズの万年筆でした。母は「普通の黒」の「18金」で「金文字」の「手彫り」で「名入れ」するつもりだったので 猛反対でした。果敢に反発し 母も「ほな… しゃ〜ないな…」状態になった時に今度は 万年筆屋のおっちゃんが言いました 「名前 どこに 入れまひょ…?」 とキャップが長い分 本体の短い軸には「名入れ」は 「出来まへんなぁ…」 と のたまわれた。「ほんなら キャップはずした軸は あきませんかぁ?」と ワタクシが 言うと「そんな「名入れ」聞ぃーたこと おまへんでぇ…」と おっちゃん「それやったら… キャップは あきませんのん?」と 母が言うと「ぼん が なくしはった時に 本体の方が大事で キャップなんか どこでも 買えまっせ…!」と 反論ワタクシ 疲れてきたので 「名前 別に えゝけど… 」と 言ったら万年筆屋のおっちゃんが 横目で キツクにらまれたのを 覚えています。結局 キャップはずした所の「軸」に彫ってもらうことでおさまりました。
それからと ゆーもの新中学一年生になったワタクシは 私服の時も 胸のは「セーラーミニ」を さしていたのわ ゆーまでもありません ね。でっ 後日談としてその年に パイロット社から「ノック式」というのが 発売されたのを 小遣いはたいて 買い換えあべの近鉄百貨店の万年筆売り場で 誰にも邪魔されず 一人 「名入れ」ナシで
まー その 後日談として…「ミニ」も「ノック式」も ワタクシの手許から消え去って何十年。( 万年筆なんか もー 必要ない な… )と 思ってすごしていましたら10年程前に 一度は製造中止となった あのペンが「キャプレス」と称して「ノック式」のより少し細身にしたのを 再販され余りの懐かしさに 購入 それが ワタクシの現在の愛用品となってます。
この年の夏に 舟木一夫さんの「高校三年生」がヒットした。ワタクシは小学六年生 で その歌の中の♪高校三年生 ぼくら 離れ離れに なろうとも クラス仲間は いつまでも♪の「高校三年生」を「小学六年生」と替えて 歌いあっていた。8月に 同じく 舟木さんの 「修学旅行」が ヒットそして10月には ワタクシたちは伊勢志摩への修学旅行の予定だったので 気分はピッタンコ!団塊の世代の後期だったにもかゝわらず千人近い数であった。手に/\ 「修学旅行のしおり」を持って 天王寺駅から 特別列車に 乗り込む。体育館で練習した「修学旅行用の歌」を車内で合唱させられたけどほとんど全員が 舟木一夫さんの「修学旅行」を歌った。
二見浦の夫婦岩の前で 学校専属の写真屋さんが 大好きやった川島さんのグループに レンズを向けていたのであわてゝ 後ろに回って 被写体の一員に (後日 教室に貼られた写真に「あー ボク 写ってるから 買おーっと!」と ) たくらんだりカメラを持ってた金持ちの辻木に 小さい声で 「おい 川島 撮っといてなー」 とか ゆーたり とか…定番の「枕投げ」で 思い切り 襖に飛び蹴りし 大きな穴を開け旅館の冷たい廊下に クラスの男子全員が 正座させられたり… とか「若いぼくらの修学旅行」を 思い存分 楽しんだ。家へのお土産に みんなは「赤福餅」とか ゆーのん買ぉーてたけどワタクシは 鳥羽の真珠工場を見学した時に売店で見つけた真珠貝を加工してある キラキラ七色にひかる和菓子用の楊枝を お土産に買ぉーた…けど…帰宅して それを見た 全員が 「 なに これ…? 赤福は…」 で箱のまゝ 水屋の引出しに いつまでも 仕舞われたまんまやったな…楊枝使ぉて 和菓子 食べる よーな 家柄とちゃうのん知ってゝんけどあれ まだ 引出しに 入ってんかなぁ …
30年程の昔長堀橋駅の近くにスタジオをかまえておられたNさんから「製造は終わってんねんけどな オリンパス・ペンF って えゝカメラやで…!ちっちゃいクセにレンズ交換出来て それに… 35ミリのハーフサイズやから72カットも撮れんねんでー 」と すゝめられて さっそく 大阪駅地下の中古カメラ屋の「八百富写真機店」に飛んでいってショーウインドーにへばりついて 「すんません それ ください…」と ゲット!レンズは100ミリ(35ミリ換算で200ミリ) と 38ミリ( 同 標準50ミリ) の2本をお買い上げ!でも 実際に使ったレンズは 標準レンズだけやったなぁ… 開放値はなんと! 驚異の‘1.8’それからというものは 「開放一本槍」「一点ピント」の鬼と化しました。モノクロフィルムを詰め 毎日/\ 来る日も/\ 現場であろうとなかろうと… 首からぶら下げ
ヘリコイドは一杯に絞込み 身体でピントを合わせていくのでそんな姿を見ていた 他人は 奇妙な光景に見えたと思います。そんな 懐かしい ことを 思い浮かべながら 撮ってみました GRD2。
こゝ最近 カメラに興味を無くしたって書きましたが…これっ 今 注目 っす!ポケットに入れて 「朽ちゆく昭和」 でも 撮ってみようか とか… 。
庭の朝顔は日に20センチづつ伸びている。この計算でいくと後4日で屋根の波板に到着するな…と考えてたら2日前に合った息子のことを ふと 思い出していた。1ヶ月ほど前に名古屋に住んでいる息子からのメールで「6月の14〜16日頃に帰れると思う」と届き‘帰れる’って言ってもなぁ… ‘帰って来い!’と言った憶えないしなぁ… と考えつゝ 妻に話したら 「父の日だからでしょ…!」と言われ何故だか 照れ臭い気分になった。調べてみたら去年も彼はこの時期「帰兵」していた…。ワタクシのこゝの文章の中の去年の「6月18日」に書いてあった「きょお 父の日なので とりあえず…」 と 帰宅していた。息子の中では 一応 帰宅すべき「日」なのだなと 今年もまた認識をした。
朝顔は日に/\伸びるワタクシは日々変わらず。
すいません。カメラを忘れて帰って・・・
画角がいつもと違うのです。
2008・6・17
FixedPoint
&
Click !
ゴーヤの赤ちゃん
2008・6・16
日曜日チエ子が目を覚ますと つけっぱなしのテレビから『兼高かおる世界の旅』が流れている「おかーさん…?」 と 見回すが 誰も居ない聞こえてくるのは 「…で、ござーますのよっ」 と 流暢な山の手言葉を語る 兼高さんの声だけだった…。
ガラガラと 玄関の引戸の音がし 妙子が 部屋に入ってきた。「何処いってたん?」 とチエ子「お父さんが 自転車で出掛ける ゆーて 角のドブんとこで ひっくり返りはってん」「ふん ほんで…?」「ほんで… 赤チンつけて 包帯 巻ぃたげて 今 見送ってたん や… 」「ホータイ!! そんなに 血ぃ出たん?」「違うねん! ちょっと すりむいただけやねんって!」「なんで そんな大げさに…?」「そーやねん ジャンジャン横丁の将棋屋 行って 仲間の人に大ケガやーと思わせといて 『やり込めたんねやーっ!』 ゆーて…」「ほんまに… 『王将』の曲 流行ってから 村田英雄 おとーさん 完璧に阪田三吉さんになってしもーたやん おかーさん…?」「ほんまやねぇ… 今も 自転車こぎだして 大きな声で ♪吹ぅけーばー 飛ぶよ〜なっ 将棋の駒に〜〜っ♪ って 唄いはってからに…」「それって おとーさんが よー ゆーてる洒落言葉の 『鼠六匹』 やんなぁ…?」「ほんま! ほんまっ! 将棋に六チューやねん ねっ!」と 妙子はチエ子の膝を打ち 二人して大笑いをしている。
一方天王寺の市大病院前の下りの坂を フラフラ自転車をこいでいる 勝男は「ハークショイン! 誰か オレの噂しとるなー ははーん 将棋クラブの連中やな きっと…」と ボソっと つぶやき( あいつら ほんま アホなやっちゃー 将棋ごときに鼠六匹なってから… ほんまに… )と 梅雨空の蒸し暑い曇天の中 ギーコギーコと ペダルの音を きしませていた。
『裏窓』のカメラマンのジェフが‘フラッシュ’をたいて… って 書きましたがこのフラッシュを ご存知無い方も多いかと思いますので ちょっと 説明します。と 言いましても…実は ワタクシも‘現役世代’ではありません。義理の兄が零細の新聞屋で記者をやっていて写真も撮っていた関係で カメラ周りの機材もプロ級なモノがあってその時に よく 見たり・触ったりしたくらいです。マグネシウムを詰めた電球に電流を流し マグネシュウムを焚い(燃やし)て 発光させるつまり ‘使い捨て’電球でした。「ストロボを焚くたく」って いう言葉が残っているのは それから来ていると思います。「ポラ切ろか」も そーだし 「チャンネル回して」も そーですね …!
30年前に あるカメラマンが 遠くを見るような目をして「苦労ちゃん な むかし 大きなベルトコンベア工場を 撮影したんやぁ…バルブ球 100個を あちこち 柱に隠したりして セッティングしたんや…「ポラ」無い時代 やから 露出は 先生の‘ 感’ やねんま〜 しゃーけど 「ポラ」あったとしても 100個の球 交換すんのん大変やから せんかったと 思うけど4×5フィルム3枚 撮ってんけど バルブ球 300個も 使こてんでぇ…いやっ ほんまのこと ゆーたら途中 僕 失敗してなぁ ショートさせてしもて 仲間の助手連中の手に火傷さてしもてんしゃ〜から 400個の球 使こてんけどなぁほんで 皆に 失敗したこと黙ってゝ で 「おれも 熱いわ!」 ゆーて 手ぇ 押えた真似したんやいや ほんま…でも 先生 凄かったわ モノクロやけど きれーに ‘適’ 出しはったんや やっぱ 昔の人は 凄かったわ… 」と そんな 話を聞きましたが… 若いみなさん なにか ご参考になりましたか?想像しただけでも 相当な「時間」と「人力」と「金力」が 必要だったんだろうなーっと思いました。
ところで… バルブ球って 差し込む時に 確か ペロって「舐めて」から 装着してのを何度か 見かけましたが あれって なんでやってんやろ なぁ ?
FixedPoint
&
Click !
今年一番の朝顔
2008・6・12
きのう 暗闇になる少し手前の時分に近所のどこかゝら ピアノ伴奏でテノール風の‘声楽’が 聞こえてきた。レコードCDなのか実声なのか判断できないくらいの 距離でした。
そこで…思わず ヒッチコックの映画『裏窓』のアパート風景が 頭に過ぎりました。( 裏のアパート群から 色々な 生活音が 聞こえてくる あのシーン… 懐かしいな… ) とついでに…( グレイスケリーの 衣装とかバックとか小物なんか なか/\ グレイス やったな… ) とか
そこで…主人公のカメラマンの「ジェフ」が 襲ってくる犯人の目くらませの為に フラッシュをたき続ける シーンを 思い出す( ほんまやったら あれくらいで ‘目くらまし’出来る訳 ないやろな… )
そこで…20年くらい 昔元8ozのメンバーのY君を 思い出す「苦労さん 今度 『バナナホール』のコンサートで 照明 頼まれたンですけど …観客に‘目くらませ’したいんですけど… どの位の ライト たいたら 良いんですかねぇ…?」 とで その時は 『 分からンな… 』 と 答えて後で よく考えた結論がとりあえず 全くの「暗転」を作りだしたら 50Wの光源でも点灯させたら 目がくらむンじゃ〜ないのかな… と
そこで…Y君 あのライブのライティング 上手く出来たンかな… と20年も昔のことを 心配していた ワタクシ
そこに…えゝふぅに 子犬の鳴き声も聞こえたりして ます/\ 『裏窓』の世界と同じやな って 思いつゝ… 酔っていきました 。
毎日/\ 下の写真の自転車を 移動しているんですが お気づきでした?それで 気付いたことは ‘左向き’が 何故か‘安定’しますって ゆ〜 か…‘安心’している‘自分’を 発見しました。‘右向き’に置くと ‘違和感’を感じる ワタクシ…ほんでもって考えてみました…「なんで?」で 昨夜 とうとう 結論が出ました「カタログ人間」になってしまったから! だろう と
三輪車・自転車・オートバイ・自動車・トラック・ヘリコプター と色々な「物ぶつ」つまり「商品」を 撮影をしてきましたがメインの「スタイリング」撮影は 全て 何故か 左向き だったんです… 。それが この業界の 常識なんだな… と 気付きました。
話はかわりますがTVドラマや映画やらで 東京から‘西’に向かう時は 新幹線や自動車は 画面の左方向に移動しているカットだ そー で‘西’から東京へ行く時は 反対に 右方向に移動しているのが 常識でついでに 分かりやすい 「富士山」なんかを 画面に据えれば 超説明的で OK! だ と 聞きました。と こゝまで書いていて 思ったんですが…自動車などのTVのCMでの走行シーン やはり‘西’向きが多く東北・北海道に走っているの って 滅多に 見ないなと 思いません… か?
NHKのTV番組 《夢であいましょう》 の‘今月の歌’は「こんにちは赤ちゃん」やった。この歌は 豊中にいる お姉ちゃんの文化住宅で 何度も聞いた。お姉ちゃんは9月に出産の予定やったんで ワタクシはお母ちゃんに連れられて 豊中によく行った。土曜日の夕方に豊中に到着し 夜 みんなで煎餅を食べながら 《夢であいましょう》 を見て翌 日曜日 《三ばか大将》を見終えて 阿倍野の美章園へ戻る とゆー生活がしばらく続いた。ベビーベッドの脇で歌っている梓みちよさんを見ながら お姉ちゃんは お腹の‘赤ちゃん’をさすって 一緒に歌ってた。
ある夕方豊中病院からの知らせが 四軒隣のFのおばちゃんに電話で入った緊急連絡は 当時 うっとこは電話が無かったんで電報かFのおばちゃんの電話に入るようになっていた。下駄音高く駆けてきたFのおばちゃんが 「お姉ちゃんが 生まれんねんてー 早ぉ 行ったげなぁ!」『 ど〜しよー ど〜しょ おばちゃん!?』 家にはワタクシしか 居らずお母ちゃんの工場まで 走っても 20分は 掛かるし… (早ぉ!) って 言われても…「お母ちゃんの 工場に電話 しー!」 『ふん!』 「ほな うち おいで!」 『ふん!』 といって結局は Fのおばちゃんが工場に電話を掛け お母ちゃんと喋ってくれた。
豊中病院に到着したら お姉ちゃんは 元気やった ちょっと ホッソリしたようにも見えたけど ニコニコ 笑ぉてた。「お母ちゃん 未熟児やってん…」「そーやろなー 1ヶ月も 早いもん ねー」「今 保育器で 寝てるわ…」見に行ったら 真っ赤なシワだらけの猿のよー やったお母ちゃんは「可愛らしいな…」「キレーな顔やなぁー」って 言ってたけど。足に木の札を着けてゝ 「一美」 と書いてあった。「最初の子ぉやから「一」で 美章園の「美」から 取った」 と お姉ちゃんは説明してくれた。普通の体重になった「一美」の退院は 1ヶ月後やった。お姉ちゃんは いつも/\ 「こんにちは赤ちゃん」を 唄いながら 家事をして 楽しそうやった。
「食べ初め」の行事も みんなで祝って 直ぐの12月の2週間目に入った頃豊中から「一美が体調を崩してる」と連絡が入った。12月14日の土曜日の夕方に お母ちゃんと二人 豊中に着いた。部屋は 蒸気が一杯で 息苦しいほどやった。
「ミルク飲めへんねん…」 と言う お姉ちゃん 「一美」を見ると 頬がこけて 息が吐くばかりにみえた「お医者さんは風邪やから あったこぉーしといたら 治るやろ って ゆーてはんねんけど…」翌 日曜日の夜 美章園に帰る準備を終え アパートの玄関口で お姉ちゃんとお母ちゃんが 長い立ち話をしていた。そこへ 義理のお兄ちゃんが 部屋から顔を出し 「一美 息 してへんでっ!」と 叫んだ「ギャッ!」と声を上げた お姉ちゃん やった。結局 「肺炎」 やったらしいそのまゝ 通夜 となり 次の日の朝刊に 『 力道山 死亡 』 の記事が 大きく出てたそれを見た お母ちゃんは「 力道山さんがボディーガードやから 安心やん… 」と ポツんと言ったのを 覚えてるお姉ちゃんが買おた 11月に新発売されたレコード 「こんにちは赤ちゃん」は ちり箱に捨てられてあった。
割箸で思い出すことがあります。20代の頃 ある友人と店で食事を終えその友人が ‘バキン!’と割箸を折って 平然と 器の中に入れるのを見て 驚き『なんで折んのん…?』と 恐る恐る 聞きました友人は「なんでって… ぼくの 使こた この箸 使い回しされんのんて イヤやん せやから やん…」と 事も無げに言ったのを ありありと 思い出します。
( そんな習慣もあんのか… ) と その時は思い その後で 調べてみましたら少し‘意味合い’が 違いましたが そんな習慣が 確かに‘ある’のが分かりました。一度 口を付けた箸は 使った人の‘魂’が‘こもり’やすく ‘悪霊’などに‘弄ばれ’ないようにする … らしい…。っと まー まだ/\色んな‘説’もあるよーですが… どちらにしても ‘儀式’… らしい。
話が少しかわりますが…わが町 芦屋で おいしいと言われている 蕎麦屋があります大変 有名なので 知っている方も多くおられると思います が‘うまい’‘まずい’は その人の‘嗜好’によりますから それは置いておいて‘値’が張ってるなぁ と 感じました。その分 ‘箸’は‘凄い’です! 割箸でなく一見 家庭で使っているような 白南天箸みたいな白竹のシンプルで蕎麦の引っ掛かりが良い箸です。使い切りです この店のコンセプトの高さからいくと 絶対 使い捨てでしょうそこで ワタクシ あまりにも‘もったいない’ので お店のスタッフに頼んで‘お箸’の‘お持ち帰り’をし 今 自宅で 使っています。
で 話を 戻す 訳ですが…さきほどの あの友人が あの店に 行けばやはり 習慣で「バキン!」と 折るのかな と 考えるとそうとうな‘力’が必要なので あびきょうかん な 光景になるだろうなぁとおもふ。
先日 TVである女優さんが‘マイ箸’を持ち歩いている と 少々自慢気に話しておられるのを 見ました。その‘箸’と‘入れ物’と‘箸置き’の値段の合計が5万円は超えそーだっ と 値踏みました。普通の人の‘マイ箸’なら1千円はいかないかな… とは 思いますが どうでしょうか?
ワタクシは あまり外食はしない方で 特に ‘割り箸’を使う 外食は‘aa’くらいです が‘aa’の‘割り箸’の値踏みをしますと… 恐らく 1本/1円 しないと思います。3本/2円 つまり… 1本が約0.7円 だ と 踏んでいます。そこで 問題です!
例の女優さんは 7万1千4百2十8回 ‘aa’で‘マイ箸’を使わなくては‘エコ’になりません。女優さんの外食だから もうちょっと こましな お店に行かれるとは思いますが 1本/3円は しないと思いますので結局 何万回も 外食しなければ ‘温暖化’やら‘Co2削減’やら と 逆行している行為になる と 思いませんか?
雨が屑を払ったのか
対岸の堺の山がくっきり。
2008・6・5
FixedPoint
&
Click !
雨水を 水撒きに利用すべし!
2008・6・3
土曜日 《大阪の洒落言葉G》に 懐かしいカレーの話を書きましたが『ハウス・バーモンドカレー』は ほんとうに子供こゞろに (おいしい!) と 思いました。当時 バカ売れで 乾物屋さんの店頭に《バーモンドカレー品切れ》の札が よく下がってたのを 見た記憶があります。バーモントカレーの発売は1963年昭和38年で今で云う インスタントのグルメ・カレーの「はしり」だったと 思います。
その頃の 少し前の話でワタクシの一番上の兄が 夜は定時制高校に通いながら昼間はサラリーマンをしていた時の出来事。
あれこれと大人達に混ざって過ごしていた兄そんな兄が どこかの店で仕入れたネタだったのか突然 「カレーに 牛乳 入れたら おいしなる!」 と言い張り二日目のカレー鍋の中に 牛乳をトクトクと 勝手に入れ家族全員から「ひんしゅく」をかいました。ワタクシと直ぐ上の兄は「ゲーッ!ゲーッ!」って‘吐く’真似をしたくらいです。長男は仕方なく 一人で 二日ほど掛けて 残りの鍋を平らげたのを 覚えています。「だまされた 思ぉて 食べてみー!」って 必死で言ってたけど誰も 一口も 食べなかった。今なら ‘有りかな…’ でありますが…当時 カレーは粉で 「ヱスビー食品」S&B食品の‘赤缶’が台所の棚の隅っこに置いてあった時代の話です。